宇多田ヒカル」タグアーカイブ

【音楽評】俺の彼女 宇多田ヒカル

「相手に自分を合わせすぎて疲れちゃう」ことがよくある。ママ友とのつきあい、親戚との付き合い。。。。「これはここでは言える」「これにでこうやって反応しよう」。そうやって自分を切り刻んで、自分のほんの一部だけをさらけ出して、愛想笑いする。

それがあまりにも長続きすると、社会の同調圧力に合わせて演じるのが息苦しくなってくる。

でも、そうした同調圧力をかけてくる相手が最も身近な人だとしたら。夫や恋人に絶え間なく「本当の自分」を隠しつづけて演じる状況ならストレスはさらに大きくなる。

宇多田ヒカルの「俺の彼女」はそんなシチュエーションを歌った歌だ。

俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい
気の利く子だと仲間内でも評判だし

俺の彼女は趣味や仕事に干渉してこない
帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと

続きを読む

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedInPrint this pagePin on Pinterest

【音楽評】宇多田ヒカル fantôme

宇多田ヒカルにとって、母親は美人で天才歌手で音楽の先生。憧れの人であると同時に、自分を苦しめ、傷つけた人でもある。母親の存命中、時期によって「母みたいになりたい」「母みたいにだけはなりたくない」「話し合いたい」「話し合えない」を繰りかえしたのではないか。母が突然あんな風にいなくなってしまった衝撃の後、「好きだけど嫌い」だった最重要人物への自分の強いコンプレックス感情を昇華させる試みがこのアルバムなのだと思う。

どんなことをしていても誰といてもこの身はあなたとともにある

母親の藤圭子。「どんなことをしていても誰といてもこの身はあなたとともにある〜道〜」

昇華の一つの方法は、アルバムのジャケットの彼女のおカッパヘアスタイルや、「道」の「どんなことをしていても誰といてもこの身はあなたとともにある」という詩からも分かるように、母親と自分は別々なのではなく、物理的に母親という存在が消えても、自分の中に彼女が生きていること、自分が彼女自身であることを確認すること。いくら容貌が似ていなくても、さまざまな対立があっても、母と娘はDNAで絶対的にしっかりつながれている。その血の絆が信じられれば死は乗り越えられる。

もう一つの方法は、「(たとえ母がどんな人だったとしても、母に自分が嫌われていたとしても)自分は母を大好きだった」という子供時代の思いをしっかり見つめ、そこから逃げず、ネガティブな感情を乗り越えて、「あなたは素晴らしい」「大好きだった」「ありがとう」というポジティブな感情をしっかりカムアウトしたこと。それはたぶん、彼女が生前の母親に決して言えなかったし、言っても受けとめもらえなかったこと。

分断を絆に変え、苦しみを乗り越えようとする彼女の苦闘が明らかに伝わってくる。母親とは一卵性母子のような仲良し親子ではなかったからこそ、紡ぎ出すべき言葉が生まれた。ドロドロの暗い現実を昇華させる力が素晴らしい。昇華しきれず底辺でさまよっている曲の「忘却」のヒリヒリするような痛さも好き。

母親とは直接関係ない歌(「ともだち」「俺の彼女」など)も心理を掘り下げた深みのある歌詞で、どこかで自分が経験した感情が蘇ってくる感じがする。自分の個人的な感覚や思いを多くの人が共有できる詩とメロディに転換する能力は本当に、本当に、希有のものだ。

天国でこんな娘の歌を聞いた藤圭子は、一体、どんな思いでいるのかな。

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedInPrint this pagePin on Pinterest

宇多田ヒカルのタメ口

川崎の郊外ベッドタウンで育った私。小学校低学年のときの作文の一節に「便所」と書いた。

作文を読んだ母は激怒。「便所なんて言葉!止めなさい!みっともない!」と私を叱った。

では何と書けば良かったのか。正解は「お手洗い」か、「おトイレ」だった。「便所」は田舎っぽい。まるで肥溜の匂いがする。母は私に都会的で上品な言葉遣いを望んだ。 続きを読む

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedInPrint this pagePin on Pinterest