ダライ・ラマ」タグアーカイブ

楽観主義と不随筋

ダライ・ラマは、「楽観主義でいきましょう」と言われた。その言葉が響いたから、でクローズアップしたのに、本音では、まだまだ咀嚼しきれてない自分がいる。

「コップに水が入っている。『もうこれしかない』という人もいれば、『まだこんなにある』という人もいる。同じモノを見ても、それをどう受け止めるかはヒトによって違う」。

それは30年前に親しかった人の口癖でもあった。

まだxx歳(楽観主義)なのか、もうxx歳(悲観主義)なのか。

100万円しかない、なのか、それとも100万円もある、のか?

こんな仕事しかできない、なのか、こんな仕事もできる、なのか?

客観的事実にどう意味づけするかは自分次第。

22歳の私は、「『全ては心の持ちよう』なんて、くだらん精神論だ。客観的な事実に対する自分の感じ方を自分で決めることは難しい」と思っていた。「●●さんみたいに美人でお金持ちで、恋人もいれば、幸せになれる。でもそうじゃない私は幸せじゃなくて当然」と思っていた。

いや、美人でお金持ちでなくても幸せにはなれる人はいるだろう。だが、そのために、美人でお金持ちでなくてもいい、と自然に思い切れないといけない。

残念ながら、心は不随筋なのだ。世の中にはもともと将来に対して楽観的な性向の人と、悲観的性向の人がいる。悲観的な親に育てられれば、悲観的になりやすいし、楽観的な親に育てられれば、楽観的になる。誰かを好きになるのに理由はないように、楽観的になるのも悲観的になるのも理由はない。株式市場にも楽観的なときも悲観的なときもある。そりゃ、いつも楽観的であるに越したことはないが、それを意思でコントロールするのは難しいし、不自然だ。

正直、その気持ちは50歳になった今もあまり変わってはいない。悩んでいる人に明るく楽観的な言葉をかけることできる。悲しくても、人前では努めて笑顔を作る、とか、将来を悲観しがちな自分を「頑張れ!」と励ますことはできる。でも、心の底から、自然に、心を望ましい方向に持っていくのは難しい。「楽観的に。。。」と自分で自分に言い聞かせるより早く、すでに悲観的な気分になってしまっている。一体、それを、どうすれば変えられるのだ!

ダライ・ラマの悲惨な半生に反比例するような屈託のない笑顔、将来に対する明るい見通しは、人間が困難の中でも楽観的でれることの例証ではある。ダライ・ラマだけでなく、客観的な状況にかかわらず楽観的な人を私はたくさん見てきた。そういう人は、生まれつき脳内のエンドルフィンが出やすい構造なのだろうか?それとも単に、現実認識能力が弱いだけなのか?

信仰や瞑想が楽観主義の一つの鍵であることは確かだろう。チベット仏教や禅を実践する人の中には本当に澄み切った顔をしている人がいる。ヤマト運輸の小倉昌男さんのように現実を変えて偉業を遂げる起業家には信仰心があることが多い。ダライ・ラマの楽観主義も、生来の性質というよりは、長年の瞑想で心をコントロールする術を学んだ結果だろう。仏教には心のインナーマッスルを鍛えるメソッドがある。

では、信仰もなく瞑想時間も乏しい凡夫はどうすれば良いのだろう?

どうせ不随筋は動かせないと諦めて、せめて動かせる筋肉だけでも動かすということか。

「笑う門には福きたる」のことわざを信じて、嘘でも笑う。心で悲観的になっても、絶対、それを言葉にしない。なるべく、悲観的な人との交わりを減らす、悲観的になりそうな情報は取り込まない。楽観的な人のオーラに近づく。そうやって、プチプチ、悲観のタネを潰す。

恋多き女だった作家の宇野千代さんは、生前、「私、(辛い思い出は)忘れてしまうんです」と言っていた。忘却もまた、楽観的に生きるための知恵だろう。

そもそも、コップにどれだけ水が入っているか(=過去の体験で自分が作り上げたベンチマーク)を忘れてしまえば、過去を比較して、まだこんなにあると喜ぶことはない代わりに、これしかないと悲しみ、恨むこともなくなるのだから。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedInPrint this pagePin on Pinterest