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新刊:ダライ・ラマの『楽観主義でいこう!』と『声明』

遅ればせながら、去る11月14日に本が刊行されました。ダライ・ラマ法王のスピーチから、名文句や勇気付けられるくだりをピックアップして、英日併記し、同じ内容の録音をCDにまとめたものです。

これまで日常生活のかたわら、これまで10年弱、チベットハウス(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)のボランティア翻訳をしてきました。チベットハウスのニュースリリースや、内部資料、それにこうした小冊子の翻訳などをしてきました。

それが今回、こういう形に結実しました。

法王の数多くのスピーチから選んでテキストをピックアップし、翻訳するのが私の主な役割でした。それに加え、私自身がチベットとなぜ関わり始めたか、非ネイティブが英語を話すとはどういうことか、フランス語の思い出など、私のちょっと私的なスモールエッセーも入っています。

小さな本ですが、ダライ・ラマ法王という人が何を考えて、何を言いたいのかが、わかりやすく単刀直入にまとまっていると自負しています。ぜひ、お手に取っていただけたら幸いです。

また、今回、ダライ・ラマ法王の言葉とずっと付き合う中で、「なぜ、こういうことを言うのか?」「それは、実際の生活とどう関わるのか?」とずいぶん、自問しました。それについては、折に触れてこのブログで書いていけたらと思っています。

さらに、もし、この本を読んで、チベットへの興味が高まったら、ぜひ、こちらに進んでください!

これもまた、ダライ・ラマ法王の言葉をまとめた本。新刊ほやほやです。

こちらは上級編。原書は毎年の3月10日のチベット蜂起記念日の法王のスピーチをチベット亡命政権が編纂したものです。

1961年から2011年までの一つ一つの声明は、その時点でのチベット人と国際社会に対する法王の政治的メッセージです。

あまり一般には知られていない、第一級の政治家としてのダライ・ラマ法王の側面を垣間見ることができます。

翻訳は、私と同じくチベットハウスのボランティア翻訳をされている小池美和さんが担当されています。

スピリチュアル的存在としての名声と比べると、1959年にインドに亡命してから、国家元首としてのダライ・ラマ法王が率いる亡命政権は何を考え、どう行動してきたのかということはあまり知られていません。過去50余年のダラムサラでの日々が、実に汗と涙と困難と忍耐の連続で、スリリングな面もあったことがわかります。

本土への残留組と亡命組に分かれた国民をまとめていく大変さ、刻々と移り変わる世界情勢の中で立ち位置を決めていく大変さ。。。

本書は歴史的資料としての価値が高く、チベット問題の本質を理解したい人や、中国の現代史、アジアの国際関係などを研究する人々にとって、今後、必読書となる予感がします(ダライ・ラマ法王の秘蔵写真もてんこ盛りです!)。

『ダライ・ラマの英語スピーチ集』、『声明』。いずれも福岡の出版社である集広舎さんが版元。

集広舎さんはこれまでも、ツェリン・オーセルさんの本や、中原一博さんの本など、あまり大衆受けしないチベットの政治関連本を勇敢に出版なさってきた出版社です。

この2冊に加え、数奇な運命を辿り、アメリカに亡命したモンゴル人名僧アジャリンポチェの回想録を加え、今秋、何と三冊のチベット関連本を連続して出版されました。社長の川端さんは九州男、太っ腹!

今回、素晴らしい方々と協力して仕事ができ、たくさんの気づきを得ることができました。

これからも楽観主義でやっていこうと思います!

引き続きよろしくお願いします。

 

 

 

 

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幸せ5–シャーデンフロイデ、または、私ってまだマシ

シャーデンフロイデ(Schadenfreude):他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情

ダライ・ラマ法王とツツ大主教の’The book of Joy’を読んで初めて知った言葉。ドイツ語。ドイツ語には他の言葉にないイディオムがある。

「人が不幸になると幸せになる。人が幸せになると不幸になる」という幸不幸の社会的トレードオフ。あたかも、世界の幸福の総量は限られているかのように、万人がそれを奪い合う。どう考えても美しくない感情だが、反面、実にありふれてもいる。

「他人の不幸は蜜の味」ーースキャンダル専門週刊誌の売り上げは、それが人々のシャーデンフロイデをどれだけ満たせるかでどれだけ売れるかが決まるような気がする。「へー、この人、成功してたけど、今は結構、大変なんだね〜」。それで自分の幸福度が変わるわけではない。でも、上だったものを下に落とすことで、少なくとも「スッキリ」する。溜飲が下がる。うさが晴れる。

そういう感情は後ろ暗いし、非道徳的だから、日常生活では抑える。「私、あなたが不幸になるといいと思う。あなたの不幸が楽しい」なんて、誰かに絶対言わない。でも、言わなくても、そういう感情はある。

昔、白血病で死んだ女優夏目雅子が病床で、「自分がいないあいだの他の女優の芝居は全部、こけるといい!」と叫んでいたという。これもシャーデンフロイデだろう。当時、彼女はまだ25歳で、上り坂の人気女優だった。仕事を降板し、どんどん弱っていく中で、とても他人の幸せを願う境地でいるのは無理だったろう。そう言った彼女を私たちが非難する気になれないのは、彼女が若くして死んでしまったからだ。

ユニセフのCMや学校の先生。「世の中には今日のご飯も食べられない人がいます。あなたたちは幸せです。そのことを感謝しましょう」という。これも微妙だが、少しシャーデンフロイデが入っている気がする。自分より貧しい人がいると認識することで、自分の幸福を再確認するのっていやらしくないか。

テレビや新聞の悲惨な事件のニュース報道も微妙だ。日本の新聞やテレビニュースは頻繁に、子供の交通事故、虐待死、老人の独居死など、結構残酷なニュースを流す。大半の視聴者は「かわいそう!ひどい世の中ね。そんなことがあるなんて!」とシュールな事件に憤り、社会の仕組みや政治家を非難する。でも、心のもう半分では「それが自分と自分の家族に起きないで良かった。なんとか、今日一日、無事だった。自分はまだマシ」と、見ず知らずの他人との比較で自分の幸せを確認する。事件事故報道の隠れた意義は、凡夫のささやかなシャーデンフロイデを満たすことにある。

穢多非人、アウトカースト(不可触民)のような非人道的な差別が組み込まれた社会の階層制度が作られたのは、人間のシャーデンフロイデ的幸福観を逆手にとった為政者の知恵かもしれない。「自分はまだマシ」「下には下がいる」と思えることで人々のシャーデンフロイデが満たされ、不満はガス抜きされ、社会が安定化する。

シャーデンフロイデがポジなら嫉妬、羨望、自己卑下はネガ。「他人の幸福は自分の不幸」はさらに身近な感情だ。

みんな、志望校に合格したのに、僕だけ落ちちゃった。「おめでとう」と友達に言いたい。でも顔が引きつらないでは言えない。

親友の結婚式。私は失恋したばかり。「おめでとーっ」「綺麗!」「いーなーっ」って披露宴を盛り上げる。家に帰って「なんで私はダメなの」って呟く。

自分が不幸なとき、他人の成功や幸せは不幸を増幅する。

誰もがそういうネガティブな感情に覚えがあるから、大人になると人は個人的幸せや幸運を努めてひけらかさないようにする。本当の金持ちは、金持ちであることを隠す。逆に、個人的不幸は誇張する。ママ友同士は、自分の子供の問題点や苦労ばかり言い合って謙遜合戦する。それが空気を読む、つまり、社会性を身につける、ということだ。

本当は、「いつだって他人の幸せをわが事のように喜ぶクセをつける」というのが、究極の勝利戦略なのだろう。先の本、Book of Joyは羨望や嫉妬への処方箋として、それを推奨している。仏教ではそれを「ムディター=随喜」というそうだ。要するに、シャーデンフロイデの反対の感情。

問題は、それがすごく難しいこと。

凡人は天使でも悪魔でもないからシャーデンフロイデを感じる時もあれば、ムディターを感じる時もある。シャーデンフロイデを強く感じるのは、自分が椅子取りゲーム的状況に置かれていると感じるときだ。オカネ、愛情、能力、そういう希少物を誰かと競争し、自分が負けそうなとき、シーソーゲームに講じているとき、私たちはシャーデンフロイデを感じる。逆に、他人と競う必要のないとき、勝ち負けがないところでは、他人の幸せに素直に共感できる。病気の友達がいて、病気が治れば、良かったね、と心から言える。お年寄りに席を譲れる。

世の中が競争的になり、個人同士がガチンコで比較にさらされ続ける世の中では、ますます社会全体でムディターが減ってシャーデンフロイデが増えている気がする。社会が豊かになってもなぜか幸福感が増えず、学校ではいじめが蔓延し、自殺者が減らず、うつ病者が増えている。それは、幸せを相対的、シャーデンフロイデ的にしか感じられなくなっている私たちの感じ方、そしてそういう感じ方を作り出す社会の仕組みや教育に元凶がある気がする。

社会の仕組みや教育を変えられず、ドロップアウトもできないとしたら、どうやって個人の心からシャーデンフロイデを減らせるだろう。

私が試している方法は、競争的な社会の仕組みを単なるゲームと考えて、絶えず、ゲームオーバーすることだ。試合中は全力で戦うが、試合が終われば、競争心をリセットし、勝者が敗者を労わり、敗者も勝者を讃え、肩を叩き合う、一流のエレガントなアスリートになった気分で。

あとはやはり、モヤモヤが溜まったら、たまに週刊誌を読んでガス抜きすることかな。

所詮、私たちは聖人君子ではないのだから。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せと合目的性

合目的性(purposiveness):事物のあり方が一定の目的にかなっていることをいう。

目的は、幸せ。自分と周りの人の幸せ。

夫はオカネを稼ぐ人。妻は家事と子育てをやる人。夫の稼ぎが悪ければ、妻も働いて、家計を助けたれる。でも、もし夫の稼ぎが支出を満たすのに十分なら、妻は家事と子育てに専念すればいい。

家事と子育てだけじゃ、時間が余るとしたら?妻の社会とのつながりや、自己実現は?

友達や親戚とソーシャルする。映画に行ったり、食事をしたり。ボランティアや、趣味。何か、社会的意義のあることをやる。お小遣い稼ぎに翻訳をする。関心のある本を読む。フルタイムでオフィスでお金のために働いていた時、やりたかったけどできなかったことをやればいい。

チベット問題を支援するとかね。自分がいい人になった気分になることをする。

そして、夫と子供にニコニコ接するのが、妻が楽しそうにしているのが家庭の幸福。

夫は家にお金をもたらすことが、家族の幸福。

夫も妻も、家庭の幸福を最大化する、合目的的な生き方をする。

それが目的に叶っている、というのはわかる。でも、そもそも、目的って何?

幸せ。

家族と幸せ。

でも、幸せって?

50歳になっても、まだ分からない。どうやって生きていいのか。

幸福のために合目的的に生きるって、どんな風に生きることだろう。

幸福に向けて合目的的に生きることはできるんだろうか?

私以外の人は、そんな風に、合目的的に生きているんだろうか?

そんなことを考えながら、最近二冊の本を読みました。

The Book of Joy

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ダライ・ラマ法王の横浜講演

今年2度目のダライ・ラマ法王の来日。最後の横浜講演に行きました。

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法王の講演はだいたいスタイルが似ています。満場の拍手の中、法王が登場。法王が英語で「思いやり」「内面の平和」「世俗の倫理」などについてトークします。その後、「私に質問はありますか?」という法王の言葉を受けて、質疑応答セッションに移ります。法王はだいたい10〜20の質問に答え、講演終了予定時間をだいたい30分ほどオーバーします。 続きを読む

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