外便所を納屋にリフォーム

いすみの古民家には庭に古い外便所がありました。

畑仕事や庭仕事をする時に外便所は便利なものです。長靴で作業していて用便するとき、いちいち靴を着脱して家の中と外を行ったり来たりするのは面倒臭いですから。

でも、外便所は随分前から使われておらず、浄化槽ともつながっていませんでした。それで、私たちが入居したとき、すでにこの家の前の小屋は無用の長物と化していました。

掘立て小屋だし、大きさも中途半端だし。。。。正直、大切に残したいと思うような建物ではないのですが、ちょっと風情がある建屋ではありました。迷ったのですが、結局、外側を残して中身を取り払い、小さな納屋兼自転車置き場として再利用することにしました。

 

壁と扉、便器などの撤去や屋根の張り出しの拡張、トタンの張り直しは工務店さんにお願いしました。その後、屋根と壁のペンキの塗り直し、床の整備は自分で直すことにしました。

床を自分でやることにしたのは、工務店から出てきた見積書で「床のコンクリート打設」が思いのほか高かったからです。わずか2平米で6万円。

工務店から最初に出てきた小屋改装の見積もりは20万円弱でしたが、コンクリート打設以外にも費用を抑えるよう努力して、なんとか11万円強に抑えました。

ボコボコの床に砂と路盤材を敷いていきます。

       

家周りのDIYと外回りのDIYの違いは、後者は材料がとても重いことです。一袋20キロの砂袋をたくさん、買いましたが、運ぶだけでとても大変でした。それでいて20キロの砂は床に敷くとほんのちょっとにしかなりません。

 

東京で重いモノをほとんど持たない生活ですから、すごくギャップがありました!

ペンキ塗りは楽しい作業かな。。。と思っていましたが、ペンキ缶のフタを開けるだけで一苦労(泣)。

と、そんな大変な思いをして塗り終わった小屋の姿に大満足!

 

結局、材料、工具の費用なども合わせると、20万円くらいにはなってしまいました。モノを収納する場所ですが、中に収納するモノより入れ物の方にお金がかかる(泣笑)

数週間かけて作業している間に季節はすっかり春。再び庭の手入れの季節が到来しました。落ち着いたら、いよいよ本丸、キッチンと洗面所のリフォームに着手しようかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ7:幸せの対極にあるのが嫉妬–映画アマデウスより

ちょっと古い映画ですが…1984年、ミロシュフォアマン監督の作品です。古いってなんと、もう33年前の映画です。

テーマは嫉妬心。

人間の持つ嫉妬心という普遍的な感情が神話的に描かれた映画だからこそ、多くの人の心を打ち続けているのでしょう。

時代は18世紀末のヨーロッパ、ウィーン。

サリエリの頭の中はモーツァルトでいっぱい。なぜ、あんな奴があんな作品を作れるのか?サリエリは煩悩と嫉妬の塊。完全にモーツァルトに取り憑かれている。「なんで俺じゃなくて、あいつなのか!」といつも心で叫んでいる。 

でも、モーツァルトにとってサリエリはただの業界の偉いオジサン。神童モーツァルトには世間にいい作品を発表して認められないという野心もない。彼にとって音楽は努力ではなく天から降ってくるもの。

そこがまたサリエリにはムカつく! なぜ、俺は努力してるのに、あいつは努力しない?なぜ、努力しない奴がしてる奴に勝つ? なぜ、俺はあいつのことばかり考えてる?

サリエリがモーツァルトとは無関係な自分の価値を認めることができていたら、異様な執着は消えていただろう。

世界中には、何百万、何千万の不幸なサリエリがいる。運動神経、頭脳、美貌、名声、才能、権力。社会でそれらは一部の人にしか与えられない。万人に与えられていないからこそ、社会は類い稀な才能を愛するる。だから必然的に格差は生まれる。

一番、不幸なのは美貌、名声、権力、才能から遠い人たちではない。それを求め、努力した結果、上位5%につけているが、絶対上位1%には入れない人たち。上位1%を絶えず意識している立ち位置の人たち。いつだって羨望の対象を意識しているのに、羨望の対象の方からは一顧だにされない人たち。

そんな人々の肥大した自我と嫉妬心から多くの混乱と悲劇が生まれる。

嫉妬する人は嫉妬の対象を愛してもいる。サリエリはモーツァルトを誰よりも理解し、愛している。愛しているからこそ、自分が惨めだ。非対称性を解消したい、嫉妬する対象と自分を同一化したい。だから、モーツァルトをストーキングし、殺し、最後は自殺する。

痛〜い、かわいそうな、あまりに人間的なストーカー、サリエリ。感情移入させてくれて、ありがとう。

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幸せ6–それに意味はあるのか?

「幸せ」というキーワードで、これまで変化率お金五感の歓びシャーデンフロイデを見てきた。

でも。

実は、古今東西のどんな「幸福論」にも、それらは本当の幸せじゃないと書いてある。どんな宗教も「欲望を満たすだけじゃ人生は虚しい」と説く。

虚しい、とは、意味がない、ということだ。

私たちは虚しくならないために意味を求める。

意味がある行為のためなら苦労だって厭わない。死さえ厭わないこともある。ジハードの戦士や、神風特攻隊員、子供を助けるために命を捧げる親のように。倒錯しているようだが、生きるより、死ぬ方が幸せだから、死ぬのであり、そうした人たちは目的に対して合理性を持っている。

 

人が人生の意味を求めるのは、命が有限で、金はあの世に持っていけないし、五感の快楽は長く続かないからだ。

金や地位はもういい。仕事で実績を残したい、業界の発展に尽くしたい、と職業人が強く思うようになるのも、衣食足りてキャリア後半の時間の有限性に気づいてからだ。前半生を利己的に生きてきた人が後半生、社会貢献活動に勤しむのも、自分の人生に意味づけするためだ。

古今東西、生きた足跡を何ら残さず死んでいく凡夫にとって最も人生の意味が感じられるのは、子供の存在だろう。父祖の遺伝子を次の世代につなぐリレーの役割を果たした、と感じられることは、何と言っても意義深いことだ。そうした幸せは平凡だが、深く、永続的だ。

人は意味を求めて子供を産み、育てる。

子供に先立たれるのが親の最大の苦しみなのは、それによって生きる意味が絶たれてしまうからだ。病気や事故で子供を失った親はよく、「二度とそうした悲しみを他の人が味わわないように」と、残りの人生を癌撲滅や交通事故防止などの社会運動に捧げるケースがある。苦しみのあまり「全ての親がこの苦しみを味わうが良い!」と世を呪いまくってもいいのに、そうならない。愛する子供の死を無駄死にしたくない、生きた意味を残したい、と思うからだ。そうした愛、意味を求める行為に私たちは崇高な人間性を感じる。

単なる物質的な豊かさは物語を生まない。消費者や財・サービス提供者として生きて死ぬだけでは「意味」は生まれない。

だから、経済力の指標であるGDP(国民総生産)で人の幸福を測りきれないのは当然だ。だからといってGDH(国民総幸福度)でもやはり、本当の幸福は測れないと思う。一人一人の人生の「意味」は定量化できない。

 

かくいう私も40歳を過ぎて、いちいちのことに「それって、どういう意味があるんだろう」と考えるようになった。「幸せって何だろう」と考えるようになったのも、意味の模索にほかならない。

残りの人生、なるべく意味のないことはやりたくない。いすみに週末居住して庭いじりするようになったのも、「意味」探しの一環だ。

でも、いすみで植物や動物を見ていると、私の「意味」探しは止まってしまう。動物は言うーー「意味って何のこと?」って。動物や植物は、意味など問わない。

私も同じだった。一番、幸せだった子供時代。意味なんて考えなかった。沈丁花の花の匂いにうっとりする。湖の水面のキラメキに、ワクワクする。ゆでトウモロコシの甘さを味わう。その幸せには、意味も、物語も、過去も未来もなかった。ただ、一瞬の言語化されない感覚があるだけ。

多分、年をとっていくことは、徐々に子供に戻ること。社会であまり役立たなくなり、生産性も落ちてくる。終いには他人の承認も、意味も、そういう知的でややこしいことは全て、考えられなくなる。

でも、そうなったからこそ、訪れる幸福もあるはずだ。子供時代の幸福の記憶が私にそうした確信を与えてくれる。

そう思うと、かなりリラックスして老いを迎えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ5–シャーデンフロイデ、または、私ってまだマシ

シャーデンフロイデ(Schadenfreude):他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情

ダライ・ラマ法王とツツ大主教の’The book of Joy’を読んで初めて知った言葉。ドイツ語。ドイツ語には他の言葉にないイディオムがある。

「人が不幸になると幸せになる。人が幸せになると不幸になる」という幸不幸の社会的トレードオフ。あたかも、世界の幸福の総量は限られているかのように、万人がそれを奪い合う。どう考えても美しくない感情だが、反面、実にありふれてもいる。

「他人の不幸は蜜の味」ーースキャンダル専門週刊誌の売り上げは、それが人々のシャーデンフロイデをどれだけ満たせるかでどれだけ売れるかが決まるような気がする。「へー、この人、成功してたけど、今は結構、大変なんだね〜」。それで自分の幸福度が変わるわけではない。でも、上だったものを下に落とすことで、少なくとも「スッキリ」する。溜飲が下がる。うさが晴れる。

そういう感情は後ろ暗いし、非道徳的だから、日常生活では抑える。「私、あなたが不幸になるといいと思う。あなたの不幸が楽しい」なんて、誰かに絶対言わない。でも、言わなくても、そういう感情はある。

昔、白血病で死んだ女優夏目雅子が病床で、「自分がいないあいだの他の女優の芝居は全部、こけるといい!」と叫んでいたという。これもシャーデンフロイデだろう。当時、彼女はまだ25歳で、上り坂の人気女優だった。仕事を降板し、どんどん弱っていく中で、とても他人の幸せを願う境地でいるのは無理だったろう。そう言った彼女を私たちが非難する気になれないのは、彼女が若くして死んでしまったからだ。

ユニセフのCMや学校の先生。「世の中には今日のご飯も食べられない人がいます。あなたたちは幸せです。そのことを感謝しましょう」という。これも微妙だが、少しシャーデンフロイデが入っている気がする。自分より貧しい人がいると認識することで、自分の幸福を再確認するのっていやらしくないか。

テレビや新聞の悲惨な事件のニュース報道も微妙だ。日本の新聞やテレビニュースは頻繁に、子供の交通事故、虐待死、老人の独居死など、結構残酷なニュースを流す。大半の視聴者は「かわいそう!ひどい世の中ね。そんなことがあるなんて!」とシュールな事件に憤り、社会の仕組みや政治家を非難する。でも、心のもう半分では「それが自分と自分の家族に起きないで良かった。なんとか、今日一日、無事だった。自分はまだマシ」と、見ず知らずの他人との比較で自分の幸せを確認する。事件事故報道の隠れた意義は、凡夫のささやかなシャーデンフロイデを満たすことにある。

穢多非人、アウトカースト(不可触民)のような非人道的な差別が組み込まれた社会の階層制度が作られたのは、人間のシャーデンフロイデ的幸福観を逆手にとった為政者の知恵かもしれない。「自分はまだマシ」「下には下がいる」と思えることで人々のシャーデンフロイデが満たされ、不満はガス抜きされ、社会が安定化する。

シャーデンフロイデがポジなら嫉妬、羨望、自己卑下はネガ。「他人の幸福は自分の不幸」はさらに身近な感情だ。

みんな、志望校に合格したのに、僕だけ落ちちゃった。「おめでとう」と友達に言いたい。でも顔が引きつらないでは言えない。

親友の結婚式。私は失恋したばかり。「おめでとーっ」「綺麗!」「いーなーっ」って披露宴を盛り上げる。家に帰って「なんで私はダメなの」って呟く。

自分が不幸なとき、他人の成功や幸せは不幸を増幅する。

誰もがそういうネガティブな感情に覚えがあるから、大人になると人は個人的幸せや幸運を努めてひけらかさないようにする。本当の金持ちは、金持ちであることを隠す。逆に、個人的不幸は誇張する。ママ友同士は、自分の子供の問題点や苦労ばかり言い合って謙遜合戦する。それが空気を読む、つまり、社会性を身につける、ということだ。

本当は、「いつだって他人の幸せをわが事のように喜ぶクセをつける」というのが、究極の勝利戦略なのだろう。先の本、Book of Joyは羨望や嫉妬への処方箋として、それを推奨している。仏教ではそれを「ムディター=随喜」というそうだ。要するに、シャーデンフロイデの反対の感情。

問題は、それがすごく難しいこと。

凡人は天使でも悪魔でもないからシャーデンフロイデを感じる時もあれば、ムディターを感じる時もある。シャーデンフロイデを強く感じるのは、自分が椅子取りゲーム的状況に置かれていると感じるときだ。オカネ、愛情、能力、そういう希少物を誰かと競争し、自分が負けそうなとき、シーソーゲームに講じているとき、私たちはシャーデンフロイデを感じる。逆に、他人と競う必要のないとき、勝ち負けがないところでは、他人の幸せに素直に共感できる。病気の友達がいて、病気が治れば、良かったね、と心から言える。お年寄りに席を譲れる。

世の中が競争的になり、個人同士がガチンコで比較にさらされ続ける世の中では、ますます社会全体でムディターが減ってシャーデンフロイデが増えている気がする。社会が豊かになってもなぜか幸福感が増えず、学校ではいじめが蔓延し、自殺者が減らず、うつ病者が増えている。それは、幸せを相対的、シャーデンフロイデ的にしか感じられなくなっている私たちの感じ方、そしてそういう感じ方を作り出す社会の仕組みや教育に元凶がある気がする。

社会の仕組みや教育を変えられず、ドロップアウトもできないとしたら、どうやって個人の心からシャーデンフロイデを減らせるだろう。

私が試している方法は、競争的な社会の仕組みを単なるゲームと考えて、絶えず、ゲームオーバーすることだ。試合中は全力で戦うが、試合が終われば、競争心をリセットし、勝者が敗者を労わり、敗者も勝者を讃え、肩を叩き合う、一流のエレガントなアスリートになった気分で。

あとはやはり、モヤモヤが溜まったら、たまに週刊誌を読んでガス抜きすることかな。

所詮、私たちは聖人君子ではないのだから。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ4ーーお金

私たちが、お金を大切に思い、お金と幸せを結びつけて考えるのは、市場社会に暮らしているから。

私たちは、お金があれば色々なものが買えて、能力や運によってお金を稼げる可能性が変化する世界に住んでいる。おそらく私の江戸時代のご先祖様は、お金があって幸せ、とは思わなかった。当時はお金で買えるものが少なかったからし、個人の努力によってお金を得ることも難しかった。

今の世の中も、もちろん愛や友達をお金では買えない。それはわかりきっている。でも、それ以外にはかなりのものがお金で買える。母の世代より、私の世代の方がお金で買えるものはどんどん増えている。

ログハウスと北欧家具で、理想の暮らしを買う。

ヨガと美容整形で、素敵な容姿を買う。

家事をアウトソースし、便利グッズを入手して時間を買う。

習い事をし、映画に行って、本を買って、教養を買う。

エアコンで、快適な温度の中で生活することを買う。

保険と貯蓄で安心を買う。

マインドフルネス瞑想で心の安定を買う。

全部、可能。

それらを買うことで、自由と快適さが得られる。そのことを思うと、全ての人が物質的な豊かさを目指すのはあまりに自然なことに思える。

そんなお金を、合法的に得るためのメインの手段は「働くこと」と「理財すること」だ(今日の世の中、略奪はダメ)。

それで、より良い仕事を目指す。より良い雇用機会を得られる教育を子供に与えるために一生懸命働く。自分のお金で買いたいモノを買う。みんな、そうやって生きている。それができないと不幸になる。

企業業績、貿易摩擦、雇用、失業、格差、年金、教育、株式市場。世の中のほとんどの情報が経済に関係している。社会がお金を中心に回っていて、人と人はお金を通じて結び付いている。社会のあらゆることにお金が付いて回る。

不思議なのは、なのに、なぜかお金について話すことがタブー視されるのかということ。

なぜかお金は悪者扱いされやすい。私たちは、「幸せってお金じゃない」という言葉が好きだ。なぜだろう。

お金はギスギスするから。「それって、結局、お金だよね!」というと、ギスギスするが、「それって、お金じゃない」というと、なぜかギスギスしない。

手段であるお金が目的化すると、一体感、親切、絆、忠誠、公平、道義心など、長く共同体で大切にされてきたものがズタズタになるから、かな。

共同体で暮らした年月の長さに比べたら、私たちがお金万能の市場経済に晒されて生き始めたのはごく最近に過ぎない。

お金による商品や労働の交換は、ヒトを比較可能な定量的存在にする。定量化によって私たちは分業や協力ができるようになった。でも、お金は、同時に希少な資源を巡る競争を生む。お金を基準に、勝ちたい、負けたくないと望む心は、不安、恐怖、羨望、嫉妬という、幸せと正反対の感情につながる。誰かが勝てば、誰かが負ける。

多分、市場化されていない世界でも(家柄、容姿、権力、名声などに基づく)比較と競争、不安、恐怖、羨望、嫉妬はあった。でも、家柄、容姿、権力、名声よりもお金はさらに普遍的で比較がしやすい。ネットやビッグデータや統計によって、お金をめぐる透明性はさらに増している。そして、お金と能力が同一視されるようになると、ますます個人の精神衛生は辛くなってくる。

売ることに必死な企業は客をカモろうとする。客の方も、売り手を安く商品やサービスを提供してくれるモノとしか見なさなくなる。「お金がなくなるかも!」という不安によって、過剰な貯蓄や過労死といった倒錯現象が起きる。

お金が生む個人主義によって他人と一体感が持てなくなる。他人を「カモれるか?」「ロボットとして酷使できるか?」「自分より上か」「自分より下か」としか考えず、「カモられることができる」「ロボットとして酷使されることができる」ことだけが生まれた目的みたいな人間が出来上がる。

そんなヒトだらけになると、子供の数が減る。老人が孤独になる。生態系が破壊される。

そんな風に、お金は本質的に矛盾している。つながりを生むと共に、つながりを壊す。共同体にとってもお金は大切だが、お金を大切にしすぎると共同体が壊れる。お金は個人的な問題だが、個人的な問題としてだけ捉えられるものでもない。

 

矛盾しているから難しい。そう、世の中の大半のことは矛盾しているから難しいのだ。お金だけじゃない。そもそも人間の感じる幸せそのものが矛盾している。

お金についてはこれだけ。まだまだ幸せについて書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ3ーー五感の歓び

悲しいこと、辛いことがあったとき。美味しいものを食べ、いい音楽を聞き、いい絵を見て、面白い映画を見て、エステやマッサージに行く。

人は気持ちの良い感覚を、目、鼻、口、耳、肌の五感から感じる。

美味しいものは舌を喜ばせ、映画は目を喜ばせ、音楽は耳を喜ばせ、マッサージは肌を喜ばせる。

素敵な花や焼けたばかりのパンの匂いを嗅ぐ幸せ。それは、前回の記事で分析した、生活が便利になっていく幸せ、変化率を楽しむ幸せとは少し違う。

五感を楽しむ=感覚的快感は、幸せというより快楽(pleasure)かもしれない。

快楽は本当の幸せではない、という人もいる。一時の欲を満たすだけのものだと。僧侶は禁欲を保つ。イスラム教徒には具象画が禁止されている。日本の高校生はパーマをかけることが禁止されている。粗食、ミニマリズムなどの節制を説く最近の動きは、過度の五感の喜びにハマり過ぎた私たち現代人にリセットを呼びかけるものだ。

宗教家や教育家がなんと言おうと、現代を生きる私たちが幸福感の多くを五感の喜びに依存していることは間違いない。娯楽産業や旅行産業など、世の中の実に多くの仕事は、「お金と引き換えに五感の幸せをもたらす」ことを生業としている。売春婦、アーティスト、写真家、パフューマーからエステシャン。彼らはいかに他人に五感の愉しみをもたらせるかによって価値が決められる。なぜなら、社会で生活する多くの人が、五感の快楽を感じたいと願って暮らす快楽主義者で、もたらされる快楽の程度に応じて金を払いたいと考えているからだ。

イスラム教や日本の高校がタブーを設け、快楽の抑制を説く一つの理由は、禁欲ルールをメンバーに守らせることで、メンバーとそれ以外の区別をはっきりし、社会の団結を固めさせるためかもしれない。

五感の喜びを社会が警戒する、より実質的なもう一つの原因は、快楽には浪費や中毒性の要素があり、それに個人が耽りすぎれば社会の規律が乱れ、生産性が落ちるからかもしれない。

麻薬が多くの国で禁じられているのはそのためで、お酒やタバコも浪費や中毒につながる。食べすぎれば、肥満になる。自分の五感の喜びを人生の目的にして、その実現だけを目指せば、自己中心的な人間が出来上がる。

でも、そこまで中毒性はなく、他人にも迷惑かけず、節度を持って追求できる「五感の幸せ=気持ちいい」はある。例えば、花の匂いを嗅ぐ幸せ。嗅覚には中毒性は低いから、花を嗅ぐ幸せに副作用が殆どない。季節の旬の食べ物を楽しむというような楽しみにも副作用は少ない。

副作用が少ない分、永続性もない。花の匂いを永遠に嗅いでいるわけにはいかない。私たちは、瞬間、花の匂いに幸せを感じる。花の匂いは貯めておくこともできなければ、それを正確に記憶することもできない。それで私たちは、花の匂いに執着せず、花のことを忘れて、また人生の目的やら義務やらに向かっていく。

 

沈丁花の匂いは私に幸せをもたらす。まだ咲いていないツボミですらワクワク感を与える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ2 変化率

戦前、戦中、戦後を生きてきた83歳の義母は、吉祥寺の繁華街やデパ地下など、モノの豊かさが感じられる場所が大好きだ。義母は、モノがなかった時代からどんどん、日本が豊かになっていくプロセスの生き証人だから。湯沸かし器、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ガスオーブン、電子レンジ。パンのなかった時代から、山崎の食パンの時代、そして、フォションのブリオッシュの時代。科学技術が発展して日本が豊かになるとともに、義母の幸せも増してきた。

昭和42年生まれの私は、小学校の頃から公害だの、科学技術の発展の弊害だの、科学技術の発展と経済成長のマイナス面を聞かされて育った。生まれた時から、もう日本はかなり豊かだった。冷蔵庫や掃除機は生まれた時からあった。だから、家電製品に幸福感を感じることは少ない。吉祥寺の街やデパ地下の喧騒と人波は疲れるものでしかない。

そんな私でも、最新のMac Proを買って、クラウドで仕事ができるようになると、やはり少しはハッピーになる。飛行機の値段が下がって気軽に海外旅行できるようになって嬉しい。世代は違うが、やはり義母と同じように科学技術の発展と経済的豊かさ、社会の進歩から幸せを感じることがある。

だが、問題は変化の後にたいていの物事が当たり前になってしまうことだ。電気が灯ること、冷暖房のある家に住むこと、冷蔵庫と洗濯機があること、家にiMacとiPhoneとiPadとMac Proがあること、簡単に海外に行けること。そうしたことは、ひとたびすっかり慣れてしまえば、それ自体によって幸せがもたらされはしない。

モノがあるという状態が当たり前だど、人間関係の軋轢だとか、仕事の辛さだとか、家計の資金繰りだとか、体調不良だとか、それ以外の問題で悩み苦しみ、冷蔵庫を持っている幸せについてはもう考えない。

ひとたび、冷蔵庫が故障して、もう町のどこに行っても冷蔵庫が買えなくなったら。冷蔵庫を持っていたありがたさを泣いて噛みしめるだろうに。

こう考えると、幸せをもたらすのは「変化率」と言えそうだ。

「生活が便利になる」といったポジティブな変化が起きる瞬間、そうしたポジティブな変化は人に喜びをもたらす。だが、すぐポジティブな変化が起きた後の状態に慣れてしまうので、起きてしまった過去のポジティブな変化に持続的に喜びを感じ続けられない。

永遠に成長することを前提にした資本主義や、科学技術の発展は、幸せを感じ続けるためには、常にポジティブな変化を必要とするという人の本性に基づいているのだろう。「便利になる」だけじゃなく、「どんどん便利になる」、「綺麗になる」だけじゃなく、「どんどん綺麗になる」がないと、幸せな状態を維持できないのだ。

年功序列という会社の制度も、人が「ゆっくり昇進し、ゆっくりお給料が増えることで、着実に継続的にポジティブな変化率を感じ続ける」ための仕組みなのかもしれない。

目標を持つ、ということも変化率によって幸せを感じるための方便かもしれない。ダイエットのような目標を持って達成していくプロセスは、目標体重に近づくことで、刻々とポジティブな変化率を感じ続けることでもある。よく、学校で先生が「目標を持て」と生徒に言う。いつも目標を作ってそれを達成しようとすると、人に変化率による幸せを感じ続けられる。あらゆる検定を受けまくる資格ジャンキーのような人は、履歴書に書ける資格の数が増えるという変化を楽しんでいる。

問題は、そういう「ポジティブな変化率」を外界の世界で生み続けることが自然の摂理に合っていないかもしれないことだ。どんどん人口が増え続け、人が豊かになり続ければ、生態系が破壊される。人はいつか老いて死ぬ存在だから、永遠にポジティブに変化し続けるわけにはいかない。先進国の経済成長率は頭打ちになりつつある。

そういう意味で、日本が戦争で一回どん底に落ちて、ずーっと上っていく継続的かつ直線的な物質的変化とシンクロさせて人生を送った義母の世代は歴史上、珍しいほど幸せな世代だったのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ

ホモ・サピエンス全史によれば、狩猟・採集社会から農耕社会、農耕社会から産業社会に移っても、それぞれの時代を生きる人間の幸福度は必ずしも高まらなかったという。

これは、個人の人生にも当てはまるのかもしれない。幸せは降って来るもので、追求するものではない。新しい技術や生活様式によって、社会全体が「便利」にはなる。「豊か」にはなる。なら便利さや豊かさと幸せの関係はどうか。

たとえば、冷蔵庫は私の生活の仕方を変えた。でも、私は冷蔵庫によって幸せにはならない。不幸にもならない。パソコンしかり。facebookしかり。

昔の主婦は手で洗濯物を洗った。冷蔵庫がないから食べ物の買い溜めはできなかった。家事が省力化されていない社会では、女性が社会で働くのは難しかった。今は、家事労働はすごく省力化されているから、主婦の仕事で女性の時間が余るようになった。だから、女性も外でお金を稼ぐために働けるようになった。

そうした変化がわずか一世代の間に起きた。

すると、昔はいなかった、お金を稼げる主婦と、お金を稼げない主婦の格差が生まれる。能力による賃金格差が生まれる。お金を稼げるようになれば、男性に養ってもらう必要もなくなり、結婚しない女性も現れるし、子供を産まない女性も現れる。カネは生き方の自由を生み、生き方の選択肢が広がる。

科学技術の発達や、社会の富の蓄積によって、生き方の選択肢の自由がある社会になる。

でも、選択肢は個人の幸福をもたらしたかな?選択肢のある社会で生きる女性は選択肢のない社会の女性より幸せかな?

そうじゃないとは言えない。相対的にはそうかもしれない。でも絶対そうかどうかは分からない。

でも、たとえば、私は母より、幸せなのか?女性は選択肢が増えると、どんどん幸せになるのか?

私は「母より私は幸せか?」と言った。そうやって自分と母を比べた。

私たちは、なんでも比較する。「私はxxより幸せか?」「私は昔より幸せになっているか?」。そういう比較の精神そのものが、社会の進歩と情報の流通によってもたらされた。

江戸時代を生きた私のひいひいひいおばあちゃんは、決して、私のように人を比較しまくったりはしなかっただろう。

そもそも、したくても情報がないし。

今は情報が多い。お金、年齢、体重。それなら、どちらが多いか、少ないか、すぐに言える。物事を客観的、定量的に捉えることに慣れた私たちは、幸せを幸福度のような定量指標で捉えようとする。そして、そうした指標の数値を最大化することで、「より幸せな社会」を作ろうとする。

でも、本質的に、幸せは比較できない。なぜなら、主観的だから。母が心で感じていることを私はわらかない。話合ってわかるものでもないし、第三者が判断できることでもない。

幸せは、曖昧な、捉えどころのないものなのに、すべての人は求めながら生きている。幸せになりたいと思って生きている。お金を稼ぎたい、体重を減らしたい。結婚したい。子供を産みたい。皆、幸せになるため目標に向かっている。保険の契約をライバルに先んじて取る。世界の戦争をなくそうとする。死にそうな人を助ける。人を笑わせて喜ばせる。古民家を修復する。

人は幸せになろうとして何かをしている。幻想の幸せだろうが真実の幸せだろうが、誰もが幸せを追求している。私も。

一番の問題は、幸せは「なる」ものではなく、今ここにある感覚だということ。感覚は、降ってくるもので、求めたり、努力したりしては得られないということ。

だとしたら、なぜ、社会は幸福と無関係に進歩したり、変遷したりするのだろう。

そこには私たちの思考様式の中に、何か根本的誤解があるのかもしれない。

ハラリさんの本を読んで、こんな小学生が考えるような幸福論についてもう一度、考えたくなった。幸せという明確な価値判断を軸にした、とても壮大でオリジナルな歴史の本。真の独創性は、新しいものを創り出すことではなく、思っていることをそのまま口にすることなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せと合目的性

合目的性(purposiveness):事物のあり方が一定の目的にかなっていることをいう。

目的は、幸せ。自分と周りの人の幸せ。

夫はオカネを稼ぐ人。妻は家事と子育てをやる人。夫の稼ぎが悪ければ、妻も働いて、家計を助けたれる。でも、もし夫の稼ぎが支出を満たすのに十分なら、妻は家事と子育てに専念すればいい。

家事と子育てだけじゃ、時間が余るとしたら?妻の社会とのつながりや、自己実現は?

友達や親戚とソーシャルする。映画に行ったり、食事をしたり。ボランティアや、趣味。何か、社会的意義のあることをやる。お小遣い稼ぎに翻訳をする。関心のある本を読む。フルタイムでオフィスでお金のために働いていた時、やりたかったけどできなかったことをやればいい。

チベット問題を支援するとかね。自分がいい人になった気分になることをする。

そして、夫と子供にニコニコ接するのが、妻が楽しそうにしているのが家庭の幸福。

夫は家にお金をもたらすことが、家族の幸福。

夫も妻も、家庭の幸福を最大化する、合目的的な生き方をする。

それが目的に叶っている、というのはわかる。でも、そもそも、目的って何?

幸せ。

家族と幸せ。

でも、幸せって?

50歳になっても、まだ分からない。どうやって生きていいのか。

幸福のために合目的的に生きるって、どんな風に生きることだろう。

幸福に向けて合目的的に生きることはできるんだろうか?

私以外の人は、そんな風に、合目的的に生きているんだろうか?

そんなことを考えながら、最近二冊の本を読みました。

The Book of Joy

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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皇太子妃雅子様のこと

あと2年で天皇が退位して元号が変わるとのこと。平成は30年ぴったりで終わり、新しい年号になる。

2年後に皇太子様58才、雅子様54才。

私より2年上の雅子様、54歳での皇后即位は決して若過ぎない。とはいえ、昭和天皇と皇后を見て育った私にとって、同年代の雅子様が皇后陛下になられると思うと自分の前で過ぎた時の流れの長さに少し驚いてしまう。 続きを読む

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