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【書評】チャーズ―中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女

敦煌を旅行中、ガイドのメリーと一緒に、敦煌名物、ロバ肉入り麺のランチをしているときだった。

敦煌名物ロバ肉入りの麺

メリーはフェイクのグッチのリュックを背負い、伊達メガネをかけている。小柄で肉付きが良く、ちょっと稲田朋美に似ている。東京のセブンイレブンでレジ打ちをしていても全く違和感のない中年女性だ。

私はメリーに、「どうして敦煌に住んでいるの?」と聞いてみた。

メリーはこともなげに言った。「父が湖南省から甘粛省に移住してきて、母と敦煌で知り合って結婚したの。でも、父は結局、ここで餓死したのよ」と。

「ガシ」という言葉が刺さった。

メリーが生まれてから、食べ物がなくてお父さんが死んだということは、大躍進か?

敦煌は僻地だから、もしかしたら、大躍進が長引いて物流の麻痺や凶作の影響が長く続いたのだろうか?

好奇心はあったものの、メリーのプライバシーにそれ以上立ち入るのは止めた。政治的なことは話せないかもしれないし。

その代わりに、帰国後に「チャーズ」を読んだ。

「チャーズ」という本の存在は中国に行く前から知っていた。名作との評判が高かった。だが、あえて読む気は起きなかった。

飢餓、暴力、悲惨を描いたノンフィクションは読んでいて辛い。ましてや、それが実話、本人の体験談なら。私にはホラー映画や戦争映画の趣味はないし、もう小学生ではないから、「戦争は怖くて嫌だと思いました」と言うような作文を書く必要もない。

だが、メリーの一言から生まれた好奇心が私を本書に向かわせた。

もちろんメリーの父の死とチャーズの悲劇は別物だ。だが、両方とも中国の大地で起きた悲劇という点で共通点はある。

チャーズは中国建国前後の内戦時の長春で、戦前に満州に渡った作者の遠藤誉さんとその家族が実際に経験したことを、成人後の再構築したノンフィクションのドキュメンタリーだ。

当時、長春の街は国民党軍が支配していたが、その街が共産党軍に包囲された。外からの兵糧攻めに逢った街の人々は、どんどん痩せ、雑草や犬まで食べ、とうとう、人肉市場開設の噂が立つ。街からの脱出を図った日本人家族が街の内外の境界地域であるチャーズで見たものは。。。

緊迫感を持って最後まで一気に読了した。

兄弟が餓死すること、餓死者の上で眠ること、死んだと思っていた人の手が動くこと。。。。やはり描写はリアルで、とんでもなく怖かった。

肉体的苦痛を想像して戦慄したら、あとは自動的に「平和で豊かな日本で生まれ育ったことに感謝」の思考モードになってしまう。

特攻隊、戦艦大和、原爆、アウシュビッツ、東京大空襲、ベトナム戦争。7時のニュースで流れるひどい殺人、事故、災害などの悲劇。

全部、そうだ。

私たちはそれらを見聞きして、「怖い。。。」と思い、そういう恐怖がない「今の日本の自由で平和な日常」をありがたいと思う。そして、悲劇の教訓を探し、悪の根源を探し、それを憎むことで小市民的な精神の安定を得ようとする。

だが、本書の一番の怖さは、「そんな小市民的な感慨は無駄だ!」と読者を突き放すところだ。

「現実は、そんなもんじゃないんだよ」、と遠藤さんは言う。「それは、日本の侵略が悪い。。。」とか、「中国共産党の独裁が悪い。。」というようなものではなく、「戦争が起きないようにするには。。。」「家族の死を無駄にしないためには。。。」と考えること自体がそもそも間違っている、と言う。

チャーズは完全に国民党軍と共産党軍の馴れ合いによって起きた人災であり、数十万の人々の非業の最期には意味がなく、そこから教訓も引き出せない、と言う。自分たち家族や多くの人の肉体的苦痛が無意味で不条理だったと遠藤さんは言う。

チャーズの真因は、中国の厳しい原野の気候風土と「大地の法則」にある。それが本書の結論だ。人命をあまりに滑稽に弄び、個人の人生の価値を無意味化してしまう中国の大地の法則そのものを畏怖している。

それは法則なのだから、チャーズは不条理でなく条理だったのかもしれない、とすら言う。

さらに、遠藤さんは「もう嫌!たくさん!忘れたい!」と言いつつ、そういう中国の大地が同時に持つ、暖かい包容力、寛容さ、命を育む力に魅せられて、その後も中国と関わりを続けることを選んでいるのである。

個人に降りかかれば、一生に一度、驚天動地の悲劇であるチャーズも、鳥瞰的に見れば、それは繰り返されている。中国では似たような悲劇、人災が繰り返されてきた。チャーズの前には様々な内乱、その後にも、大躍進、文化大革命。。。。

もしそれが不可避な「大地の法則」なら、今後も、それは起きる可能性はあるし、法則なら起きるのが必然ということになる。

やれやれ。

メアリーは父の餓死の話の後、「息子がウィーチャットにハマっている件」をひとしきり話した。周囲を見回せば、上海や広州から来た裕福な観光客が嬌声をあげながらスマホで自撮りしている。

もしかしたら、満ち足りた様子の観光客の親兄弟は、もしかしたら、拷問死したり餓死したりしているのかもしれない。

いや、観光客自身が10年後にはチャーズの生き地獄を体験するのかもしれない。

食べきれないほどのご馳走を食べた私たちに、「食事は足りた?満足だった?満足だったらアンケートに、『満足だった』って書いてね」、とメアリーは笑って優しく言った。

世の中はシュールでグロテスクだ。

 

 

 

 

 

 

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【書評】ベーシック・インカム——BIは超リバタリアンな思想だった

 

ベーシックインカム。全ての国民が最低の所得を国から給付される制度についての入門書。

「最低限の健康的で文化的な生活」のために、赤ちゃんを含め、全ての国民一人一人が死ぬまで年84万円をもらえる。4人家族なら336万円。住む家さえあれば一生、働かないでもやっていけないこともない水準。。。

何もしなくてもお金がもらえるなんてパラダイス。でも税金は高くなるだろう。何もしなくてもお金がもらえる。そして働けば重税。そんなことになれば、誰も辛くてイヤな仕事をしなくなるだろう。すると社会が再生産されなくなるだろう。第一、膨大な公的債務と社会保障費に喘ぐ日本の財政にそんな余裕、あるはずない。。。。

そんな批判を筆者は十分見越している。筆者は左派のユートピア思想家ではない。元官僚、金融と財政のプロだ。その人がベーシックインカムは正しく、しかも財源的にも問題ないと言っている。

財源的に問題ないのは、ベーシックインカムはおよそ全ての既存の所得再分配政策を代替することを前提としているからだ。具体的には、公共工事、年金、扶養手当、子ども手当、農業補助金、林業補助金、生活保護、医療保険、失業保険、文化スポーツ補助金など。これらの手当や補助金は不必要な仕事を作り出し、社会の生産性を削いでいる。これらを全部、廃止してしまえば、ベーシックインカムの財源など軽く捻出できる。

そう、ベーシック・インカムは無駄な政府の介入をやめさせると意味でむしろ、右派的、自由主義的な思想なのだ。その最も著名な提唱者は新自由主義の宗祖ミルトンフリードマン。どうりでホリエモンがベーシック・インカムを支持しているわけだ。

人は一人で生まれることも死ぬこともできない。不慮の事故、失業、天災などのリスクに囲まれて生きている。所得を失い、貧困に沈む危険はだれにでもある。本書は社会の相互扶助機能が、家庭から会社、会社から国家に順繰りに移っていった歴史を振り返る。今、企業が社員の社会保障負担に耐えられなくなりつつあり、それが非正規雇用が増えている根本原因だ。なら、(グローバル競争にさらされている)企業を社会保障の役割から完全に解放するためにも、ベーシックインカムで国が国民の面倒を見るべきだという。

こう読むと、ベーシック・インカムの歴史の必然にすら見えてくる。

だが、そんなに簡単にいくだろうか?

もしベーシックインカムを真剣に是と考える政治家が出現し、既存の制度を真剣にベーシックインカムで代替しようとすればどうだろう?

厚生労働省の仕事はほぼなくなり、国土交通省、農水省、年金事務所、福祉事務所の規模と機能は根本的に変わる。医療業界、建設業界、運用業界、保険業界などの利権、権益は失われる。市役所や区役所の仕事も半分以上なくなる。

年金も公共事業も止めてベーシックインカムに一本化。。。それは、国家の仕組みをゼロから変えるもので、実現すれば明治維新クラスの革命だろう。官僚は反対。族議員も反対。既得権益層も反対。

賛成するのは何の既得権もないが投票権もない子供たちだけかもしれない。

そして、そんな子供たちがベーシックインカムを手に入れたとき、果たして本当に、社会に必要な労働が供給され続けるのか。ベーシックインカムの財源が確保され続けるのか。未知数なことはあまりに多い。

ベーシックインカム。「最低限の健康的で文化的な生活」のために、赤ちゃんを含め、全ての国民一人一人が死ぬまで年84万円をもらえる。4人家族なら336万円。住む家さえあれば一生、働かないでもやっていけないこともない水準だ。

働かなくてお金がもらえるなんてパラダイス。でも税金は高くなるだろう。何もしなくてもお金がもらえる。そして働けば重税。そんなことになれば、誰も辛くてイヤな仕事をしなくなるだろう。すると社会が再生産されなくなるだろう。第一、膨大な公的債務と社会保障費に喘ぐ日本の財政にそんな余裕、あるはずない。。。。

そんな批判を筆者は十分見越している。筆者は左派のユートピア思想家ではない。元官僚、金融と財政のプロだ。その人がベーシックインカムは正しく、しかも財源的にも問題ないと言っている。

財源的に問題ないのは、ベーシックインカムはおよそ全ての既存の所得再分配政策を代替することを前提としているからだ。具体的には、公共工事、年金、扶養手当、子ども手当、農業補助金、林業補助金、生活保護、医療保険、失業保険、文化スポーツ補助金など。これらの手当や補助金は不必要な仕事を作り出し、社会の生産性を削いでいる。これらを全部、廃止してしまえば、ベーシックインカムの財源など軽く捻出できる。

そう、ベーシック・インカムは無駄な政府の介入をやめさせると意味でむしろ、右派的、自由主義的な思想なのだ。その最も著名な提唱者は新自由主義の宗祖ミルトンフリードマン。どうりでホリエモンがベーシック・インカムを支持しているわけだ。

人は一人で生まれることも死ぬこともできない。不慮の事故、失業、天災などのリスクに囲まれて生きている。所得を失い、貧困に沈む危険はだれにでもある。本書は社会の相互扶助機能が、家庭から会社、会社から国家に順繰りに移っていった歴史を振り返る。今、企業が社員の社会保障負担に耐えられなくなりつつあり、それが非正規雇用が増えている根本原因だ。なら、(グローバル競争にさらされている)企業を社会保障の役割から完全に解放するためにも、ベーシックインカムで国が国民の面倒を見るべきだという。

こう読むと、ベーシック・インカムの歴史の必然にすら見えてくる。

だが、そんなに簡単にいくだろうか?

もしベーシックインカムを真剣に是と考える政治家が出現し、既存の制度を真剣にベーシックインカムで代替しようとすればどうだろう?

厚生労働省の仕事はほぼなくなり、国土交通省、農水省、年金事務所、福祉事務所の規模と機能は根本的に変わる。医療業界、建設業界、運用業界、保険業界などの利権、権益は失われる。市役所や区役所の仕事も半分以上なくなる。

年金も公共事業も止めてベーシックインカムに一本化。。。それは、国家の仕組みをゼロから変えるもので、実現すれば明治維新クラスの革命だろう。官僚は反対。族議員も反対。既得権益層も反対。

賛成するのは何の既得権もないが投票権もない子供たちだけかもしれない。

そして、そんな子供たちがベーシックインカムを手に入れたとき、果たして本当に、社会に必要な労働が供給され続けるのか。ベーシックインカムの財源が確保され続けるのか。未知数なことはあまりに多い。

どう考えても実現は難しい。実現するとしても、既存の制度の上にハリボテのようにくっつけられた、当初のシンプルな発想からはほど遠いものとなるだろう。

それでも、そんな過激な思想を日銀審議委員が提唱しているということ自体ががすごい。

なお、筆者は文中で、「富は必ずしも正当なものではないが、社会が安定するためには正当なものだと人々に感じられることが必要」と述べている。これは読めば読むほど不思議な表現で、よくわからなかった。「正当ではない富を、正当な富と思わせる」ためには「ウソ」が必要だ、ということで、欧米によるアジアの植民地化を「正当でない」と否定した(近衛首相が)アジアの共産化をもたらした(元凶)として批判している。この部分は舌足らずで他の部分と噛み合っていないで不思議だった。

それでも、そんな過激な思想を日銀審議委員が提唱している、ということ自体ががすごい。

なお、筆者は文中で、「富は必ずしも正当なものではないが、社会が安定するためには正当なものだと人々に感じられることが必要」と述べている。これは読めば読むほど不思議な表現で、よくわからなかった。「正当ではない富を、正当な富と思わせる」ためには「ウソ」が必要だ、ということで、欧米によるアジアの植民地化を「正当でない」と否定した(近衛首相が)アジアの共産化をもたらした(元凶)として批判している。この部分は舌足らずで他の部分と噛み合っておらず、不思議な気がした。

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【書評】ハリネズミの願いーーつながりたい気持ちと自意識過剰

ノンフィクションばかり読んできましたが、実に久しぶりに外国の小説。

昔の石井桃子さんの本みたいな、可愛らしい装丁。ドキドキします。

ハリネズミの願いはひととつながること。誰かと一緒にいて共感する幸せを味わいたい。

それは人の普遍的な願いでしょう。

それでハリネズミは招待状を書きます。紅茶とケーキを用意して誰かが来るのを待ちます。

待ちながら、招待されたひとの気持ちを考えてくよくよするーー迷惑かな。どうせ、みんな忙しいだろう。僕のハリが怖いだろう。僕の家はみすぼらしいし、きっと紅茶とケーキは嫌いだろう。。。

それに、来てくれたとしても、そいつがイヤな奴かもしれない(ハリネズミは自分に自信がないくせに自我が強い。気位が高く、好き嫌いが激しく、他人に厳しい。それが彼の「ハリ」なのです)。

ハリネズミは誰にでも来て欲しいわけではありません。共感して幸せを感じられる人と出会いたいのです。

でも、どうやったらそんな人に会えるのか? 会うためにどうしたらいいのでしょうか? 家をもっと綺麗にしたらいいのかな? 自分のハリを抜いてしまえばいいのかな? 何かに擦り寄ろうとしても、何に擦り寄ったら正解なのか、わからない。

それでハリネズミは不安の中で楽観と悲観、自尊と自己卑下のあいだを揺れ動きます。悲観が極まると、どうせ嫌な思いをするなら独りがいい、とやせ我慢します。

そのくせ、すぐに人恋しくなる。期待し、妄想することを止められません。

ずっと内面のシーソーゲーム、独り言が続きます。

色々などうぶつがハリネズミの家を訪れます。現実と妄想の中で、ハリネズミの家をぶっ壊すなど、変な、ひどい動物が登場します。「良い」動物もいます。ハリネズミをほめ殺すコフキコガネや、美しい歌で深い感動を与えるナイチンゲール。だが、それでもハリネズミは満足できません。一方通行で、心のふれあいがないからです。

最期の最期、ハリネズミはやっと求めていたものを手に入れます。自意識の檻から出られ、不安がなくなり、ぐっすり深く眠れるようになります。

物事は起きるときには起き、出会えるときには出会える。そこに至るには、正解もノウハウもありません。

自意識過剰と寂しさを抱えた人にとっては、どんなリアルな物語よりリアルな物語。私にとって星5つでした。

 

 

 

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【書評】貧乏人の経済学ーー金持ちはレールに乗っているだけ?

貧困問題は現代医療の問題と少し似ている。

世界の貧困問題は解決がとてもむずかしい。だから、開発経済の専門家は頭が良く、高学歴だ。開発援助の本は、あたかも動物や病気を観察するようにデータを駆使し、上から目線で貧困や貧乏人を外から眺める。

一方、貧しい国を援助する側の国の人間の私たちも、実際には1日1ドル以下の生活をしたことはないし、現場で貧乏人と遭遇したこともないから、そういう専門家が言うことが正しいのか間違っているのか、よくわからない。

では、「撲滅」すべき貧困の張本人、1日1ドル以下の生活を誰よりも良く知っている貧乏人はどうかというと、彼らは声を上げない。自分で自分のことを外部の人たちに理路整然と説明することができない。貧困を抜け出すのに何が必要かを訴える場もない。

本書は、開発経済の専門家が、「あたかも貧乏人本人が説明するように」貧困を説明した本だ。ユニークなのは、貧乏人の行動の背後のモチベーションに内側からアプローチしているところだ。貧乏人の心のレベルに入って、その行動を説明するのだ。

個人的には次のくだりが心に残った。

  • 人の何ができて何ができないかという期待は、あまりにしばしば自己成就的な予言となる(エリートの子供は親に「できる」と言われるからでいるようになる。子供に自信を持たせることの重要性)
  • 希望の喪失と楽な出口などないという感覚があると、坂道をまた登ろうとするのに必要な自制心を持つのが難しくなる(成功体験と信念の重要性)
  • リスクに直面すると人は不安になり、不安になると緊張して憂鬱となり、集中し、生産性を上げ、合理的判断ができなくなる(安定とリスクヘッジの重要性)

外側から見た紋切り型の常識や固定観念でない貧乏人の動機や原理を個別テーマごとに丁寧に分析することで、「こういうときには、こうしてあげるといいよね。。。。」と丁寧に処方箋を示す。

たとえば、一見、貧乏人は起業の天才のようだが、実はそのビジネスの大半は規模が小さく、収益性が低い。貧乏な親の大半は子供に公務員になってほしいと考えている。必要なのは起業させることではなく中規模企業への資金提供。

食べ物と競合する圧力や欲望が多い中、貧乏人は収入が増えても食事の量や質を改善しない。だから、社会的見返りを得るためには子供と妊婦の栄養摂取に直接投資するべき。

貧乏人は老後のリスクヘッジのために子供を産む。老後の社会保障を充実させれば、子沢山である必要はなくなる。

希望、リスク、信頼、惰性。。。貧乏人の心理メカニズムは私たちと同じだ。彼らはある時は合理的で辛抱強く、ある時は自制心に欠け、不安にとらわれている。

私たちと彼らに違いがあるとすれば、私たちには社会保障、公共のインフラ、銀行や保険へのアクセス、安定した収入などがあり、彼らにはない、ということ。だから金持ちは考え、選択する必要はなく、貧乏人は必死に考え、選択する必要がある。

本を読んで、私自身は随分、いろいろ選択し判断してきたようだけど、明らかに土台の部分が恵まれていて、既存の制度に楽々と乗っかっていたんだなあ、と実感。青年海外協力隊などで、金持ちの国の人が貧乏な国の人に色々なことを教えに行く。でも、実は選択と判断ということでは、貧乏な人の方が金持ちな人に教えることがあるような気がする。生死に関わるようなリスクに日々直面し、意思の力で難しい環境を生きている人はものすごく偉い。レスペクトする。

 

 

 

 

 

 

 

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【書評】バナナと日本人

今も同じなのが驚き

「変化」はニュースで報道されるが、「変わらないこと」は報道されない。世界が大きく変わる中で、この国では古い問題が今もずっと続いていて、むしろ深刻化している。本書は、バナナを通じたミンダナオ島の社会・経済構造のフィールドワークだ。今から35年も前の、多国籍企業による搾取や南北問題なんて、古い。。。。はずだった。が、全然、そんなことはなかった。

フィリピンは21世紀の今も、旧宗主国、多国籍企業、一部の特権階級に収奪され、痛められ、荒っぽいグローバル資本主義に翻弄され続けている。

相変わらず、日本のスーパーはドールやデルモンテブランドのバナナが並んでいて、一房100円。干しマンゴー、パイナップル、家政婦。フィリピン産のものはなんでも安い。

本書から35年。フィリピン経済はやっと成長が始まり、コールセンターなどの外資のBPO拠点の投資が進んでいる。。。と聞いていた。だが、行って見れば、そこで働くフィリピン人の月給は3万円。フィリピン人に与えられている仕事はいずれは人工知能によって代替されるものばかり。インフラが機能不全のマニラはほぼパンク状態で、人々は青息吐息で生きている。

農産品からサービス産
業へとところが変わっても、外国と特権階級による民衆搾取の構造は同じ。

そこへ2017年5月、ミンダナオ島で戒厳令が敷かれた。

「アメリカは俺の国の富を貪った(America lived on the fat of my land)」、「欧米はいつだって二枚舌」とドゥテルテ大統領は怒っている。なぜなのか。本書の丁寧な叙述はそうしたことを理解する助けにもなった。
イロイロシティでの朝食
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【書評】何があっても大丈夫 櫻井よしこ

櫻井よしこさんはもう70代なのに現役バリバリのジャーナリストだ。テレビで見るお姿は、奇跡的に若々しく、頭脳明晰。それでいて清潔で優しげで美しい。ニュースキャスターをされていた頃より透き通った妖精のような美しさを感じさせるほどだ。

 

http://www.jimo2.jp/areanews/index.php?id=2148

個人的にはチベット関係のパーティーで一度、お姿を拝見したことがある。とても華奢な方で、ばっちりブローでヘアスタイルを決めていた。

櫻井よしこさんと、他の凡百の女性を隔てる壁は何か?

その清潔感の源はどこにあるのか?

それが知りたくて、自伝的な迷わない。何があっても大丈夫を読んだ。

彼女の秘密は、小さい時からお母様に言われ続けてきた「何があっても大丈夫」という魔法の言葉だった。夫に捨てられた極貧のシングルマザーの環境に陥っても、妬み、僻み、諦めに偏らず、自己卑下せず、人を恨まず、櫻井よしこさんのお母様の心は奇跡のように清潔なままだった。

人間、「大丈夫」な環境があるから「大丈夫」というのは簡単だ。大抵の人は、「大丈夫」な環境の下でも根拠のない不安と恐怖に押しつぶされて自分の足で一歩を歩みだせない。でも、彼女はほとんど大丈夫じゃない環境で「大丈夫」と呪文を唱え続けて、人生を切り拓いてきた。

結婚して子供を生んでという伝統的生き方を全く否定していなかったのに、結果的に、その人生はまるで修道女のようにストイックなものとなった。彼女のずば抜けた能力と社会的成功には、仕事を追い求めているうちにいくつも家庭を持ってしまうような破天荒でアウトライヤーな父親の血も関わっているに違いない。

ジャンルは違うものの、ひどい幼少時代を送りながら、素晴らしい仕事をし、清潔な人格を開花させた高峰秀子さんや、やはり生まれで苦労しつつも、自分の中の矛盾を統合して素晴らしい能力を社会で発揮したアメリカの前大統領バラク・オバマ氏のことを考えた。

 

 

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【書評】意識のスペクトル ケン・ウィルバー

意識、スピリチュアル、宗教系の本には相性が合う本と合わない本がある。私は感性だけで書かれたポエムお花畑系や人生論、道徳を説いたような本は苦手。かといって、学術的な仏教論理書やガチの古典は歯が立たない。

ケン・ウィルバーの本とはすごぶる相性がいい。。。。この人の書いた本は全部読みたいと思う。ついていきたい、と思う。僭越ながら、理屈っぽさ、間口の広さ、問題意識や方向性、文体、すべてが自分の性分に合っている。

ケン・ウィルバーは、さまざまな賢人や哲学者などの言葉の文脈を説明する水先案内人。いわば、「おまとめキュレーター(と言ってしまうのは失礼かもだが)」なのだが、その整理力、構成力、キュレーションのセンスは尋常ではない。自分で作った構築物の枠組みに端正に賢者の言葉を組み込んでいき、それを通じて自分の主張を積み上げていく。日本では分野は違うが橘玲が似た手法を取っているように思う。

素晴らしいのは、欧米のアカデミックな知的伝統(主に心理学)とインド、中国、日本の東洋的な伝統(仏教、ヴェーダンタ哲学、老荘思想)を消化して、すべてを同じ土俵で語っていること。「アカデミック、西洋哲学、科学」と「オルタナティブ、宗教、スピリチュアル」という二つの違うジャンルだと思われて分断されていたものを(「あれ」と「これ」に分けずに)見事に一つの流れに統合するのだ。

クリシュナムルティ、ユング、グルジェフ、老子だけでなく、プラトン、スピノザ、アウグスティヌス、ヴィトゲンシュタイン。そして、まだ私の読んだことのない、多くの東西の賢者たちの言葉。そこには西洋も東洋も、偽りの対立もなく、まるで見事に調律された重層的なパイプオルガンの音色のようだ。多くのことについて、違う人が同じことを違う言葉で言っていただけなんだ、○○はそういう意味だったんだ。。。。と思う。

本書で徹底して語られるのは、人間の意識が偽りの(幾重もの)二元論に陥っている有様、そしてそれが統合されることの意味である。言葉で語るのがかくも難しいことを、かくも言葉を尽くして、親切に、丁寧に。。。。

もちろん、読むだけで自分の中の二元論が解決したり、苦しみがなくなったりするわけではない。でも、少なくとも心の「メカニズム」の解説として私にとってこれ以上の良書は今のところない。

これで、「万物の歴史」、「グレイス・アンド・グリット」に次ぐ3冊目のケン・ウィルバー。来年は彼の最大の著書Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolutionを読破したい!

 

 

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【書評】グレース・アンド・グリット ケン・ウィルバー

ケン・ウィルバーの「万物の歴史」を読んだ後、こんな書き物を書く人は一体、どんな人物なんだろう?奥さんはどんな人だったんだろう? との一種のミーハー心で手に取った本。

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈下〉

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【書評】田舎暮らしができる人できない人 玉村豊男

田舎暮らし、ロハス、スローライフといえば玉村豊男さん、というくらいの有名人の田舎本。

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書評:陰影礼讃

高校生のときに学校で読んだときに、暗闇の中に浮かび上がる羊羹や漆器の色の表現に陶然となった。30年ほどを経て、古い日本家屋の壁にからかみを貼る機会があり、表具屋さんが蓑張りした壁を前に、ふと、もう一度、本書を読み返した。

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「日本の美」が生理的に表現されていて、読んでいるだけで、日本建築の木や樟脳やカビの混ざった匂いやシンプルで静謐な空間を追体験できる。だからこそ古典的名著なのだろう。

紙、羊羹、漆器のほかに、谷崎は日本の厠の素晴らしさを称賛する。読むと体験したいと思うのだが、実際には、どんな田舎や寺社に行っても、本書に登場する木製の清潔な便器にはもう出会えない。料亭の行灯の美しさも、その下で照らされる芸者の顔の美しさも、もう失われてしまったものだ。実際、すでに谷崎がこれを書いた時代(昭和8年)からすでに、伝統的な日本家屋や純日本風の設えは滅びつつあり、谷崎自身の自宅にも実際には赤々とした近代的な電灯が灯っていたという。

ありふれたモノの美しさには誰も気づかず、美しいとされるのは、失われていくものばかり。谷崎なら「醜悪」と退けたに違いない、黒電話や石油ストーブ、ちゃぶ台といった昭和の風物もまた、平成の世では「昭和レトロ」として見直されるようになっている。

あと100年もすれば、LED電球の灯りやホットカーペットなどに滅びゆく美を見いだして、それを書く作家が現れるのだろうか。

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