映画評」カテゴリーアーカイブ

【映画評】わたしは、ダニエル・ブレイク

「カスタマーファースト」の資本主義は、たくさんお金を払ってくれる人に優しく、少ししか払わない人に厳しい。

何度電話しても通じないサポートサービス。キャンセルできない格安航空券、ネット予約しか受けつけない病院、徹底的に無駄を省いた飲食店。それらはこの30年でずいぶん増え、テクノロジーの進歩はそれに拍車をかけた。ひどいサービスにイラつくこともあるが「まあ、安いから、自己責任でしょうがないかな』とも思う。効率化のおかげで昔は高かったサービスが随分、安くなっているからだ。

非人間的サービスがいやで、ネットが苦手なら、提供者に厚い利幅をもたらす高価な商品やサービスばかりを買えばいいのだ。実際、企業に利益をもたらせば、こんなに親切にしてもらえていいのか?と思えるほど感動するほど温かくで手厚いサービスが買える。それはビジネスクラスの飛行機に乗ったり高級ホテルで食事をすれば、わかる。多くの利益をもたらす人は大切にされる。もたらさない人は人間の尊厳すら奪われる。世の中の多くのことが金の沙汰だから、私たちは貧乏になりたくない。

でも私たちのそういう気持ちと行動が複雑なフィードバックループによって、積もり積もれば弱い個人が生きにくい社会と不安を作り出している。

雇用の少ない地域に住む人、生産性の低い労働に就いている人、安定した賃金をもたらす仕事に就くだけのクオリフィケーションがない人、介護や子育てなどの家庭内の非経済的な営みに時間を取られるのに誰にも扶養してもらえない人、病気や事故のような不慮の事態で働けなくなってしまった人。それらのために家庭と社会のセーフティネットがあり、政府の所得分配機能がある。それがなければ、強者と弱者には同じ社会に住む人としての感覚が失われ、民主主義が崩壊してしまう。

でも、そうしたセーフティネットにまで資本の原理と最新のテクノロジーが導入されたら?

それが巨大な官僚機構とマニュアル主義に結びついたら?

弱者の中の弱者はいよいよ野たれ死ぬしかなくなる。

この映画はそんな「野たれ死に」の実態をリアルに描いた映画だ。

主人公のダニエルは大工。真面目で人格の立派な人だ。ただ、人生の不運により身寄りがないまま病気になってしまった。納税者の当然の権利として行政に手当の申請をするが、行政の庇護を受けられない。新しいテクノロジー、官僚主義、行政の効率化など様々な理由で。。。。福祉の窓口担当者を含めダニエルを窮地に追い込む悪意の個人は誰もいない。社会の仕組みによってダニエルはもがきながら、じわじわと殺されていく。そのカフカのような(でも私たちにもうすうす身に覚えのある現代社会の)不条理がぞっとするほど怖かった。

そうした不条理に対抗するのは人間としての思いやりと助け合いの心だろう。ダニエルは自分が苦境に陥りながらも貧しいシングルマザーの隣人ケイティを助け、ダニエルの隣人たちもまた、ダニエルに手を差し伸べようとした。弱者は弱者同士で互いに温かさを与え、助け合おうとする。

でも、それだけでは足りない。ダニエルのような人を生まないためには政治の力と、個人的な関わりを持たない多くの人にも共感の心を呼ぶコミュニケーションの力が必要だ。そう、この映画のように。

リアルに、感情に溺れず、社会の冷徹な現実を切り取って見る人の心に訴える映画にした80歳のリーチ監督は素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ7:幸せの対極にあるのが嫉妬–映画アマデウスより

ちょっと古い映画ですが…1984年、ミロシュフォアマン監督の作品です。古いってなんと、もう33年前の映画です。

テーマは嫉妬心。

人間の持つ嫉妬心という普遍的な感情が神話的に描かれた映画だからこそ、多くの人の心を打ち続けているのでしょう。

時代は18世紀末のヨーロッパ、ウィーン。

サリエリの頭の中はモーツァルトでいっぱい。なぜ、あんな奴があんな作品を作れるのか?サリエリは煩悩と嫉妬の塊。完全にモーツァルトに取り憑かれている。「なんで俺じゃなくて、あいつなのか!」といつも心で叫んでいる。 

でも、モーツァルトにとってサリエリはただの業界の偉いオジサン。神童モーツァルトには世間にいい作品を発表して認められないという野心もない。彼にとって音楽は努力ではなく天から降ってくるもの。

そこがまたサリエリにはムカつく! なぜ、俺は努力してるのに、あいつは努力しない?なぜ、努力しない奴がしてる奴に勝つ? なぜ、俺はあいつのことばかり考えてる?

サリエリがモーツァルトとは無関係な自分の価値を認めることができていたら、異様な執着は消えていただろう。

世界中には、何百万、何千万の不幸なサリエリがいる。運動神経、頭脳、美貌、名声、才能、権力。社会でそれらは一部の人にしか与えられない。万人に与えられていないからこそ、社会は類い稀な才能を愛するる。だから必然的に格差は生まれる。

一番、不幸なのは美貌、名声、権力、才能から遠い人たちではない。それを求め、努力した結果、上位5%につけているが、絶対上位1%には入れない人たち。上位1%を絶えず意識している立ち位置の人たち。いつだって羨望の対象を意識しているのに、羨望の対象の方からは一顧だにされない人たち。

そんな人々の肥大した自我と嫉妬心から多くの混乱と悲劇が生まれる。

嫉妬する人は嫉妬の対象を愛してもいる。サリエリはモーツァルトを誰よりも理解し、愛している。愛しているからこそ、自分が惨めだ。非対称性を解消したい、嫉妬する対象と自分を同一化したい。だから、モーツァルトをストーキングし、殺し、最後は自殺する。

痛〜い、かわいそうな、あまりに人間的なストーカー、サリエリ。感情移入させてくれて、ありがとう。

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【映画評】ラサへの歩き方

神社参りが好きだ。できれば、参拝前には長い参道と階段があることが望ましい。肉体の酷使は煩悩を減らし、祈ろうとする心を浄化してくれるからだ。

おとどし、ダラムサラでは、チベット式「五体投地」にトライしてみた。img_0159

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映画:ガガーリン、世界を変えた108分

まだ見ぬ国の風物が描かれたミニシアターの佳作風映画が好きな私と、ハリウッドのSFやファンタジー大作が好きな夫。趣味の違う二人がやっと折り合って一緒に行ったお正月映画。

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1961年に世界で初めて有人宇宙飛行を行ったユーリー•ガガーリンの生い立ちと宇宙での108分を描いた映画だ。

とても良かった!

「宇宙」をテーマにした映画なのだが、SF的な要素はあまりない。きちんとした時代考証によって、「1961年のソ連」の時代のレトロな雰囲気や、ロシアの農村の貧しい生活や戦争の傷跡、そして、ガガーリンの体験した空前絶後の108分の体験が良く伝わる映画だった。

ガガーリンが宇宙旅行をした1961年は今から54年前、第二次世界大戦が終わって16年。パソコンもTシャツもなく、車の形も人々の洋服も全然、今とは違う。まるで時代劇のようなセットと雰囲気の中から、たった1人で決死の覚悟で宇宙に飛び出したガガーリン、ロケットの窓から見える景色、そして、農村に空からパラシュートでフラフワ降りてくる宇宙服のガガーリンがとてもシュールだ。

目標に向かって邁進する若き国家と愛国主義。国家への奉仕に燃え、命を捧げることも厭わない純粋な若者たち。大和やら零戦やら、最近日本で流行中の戦争映画とも設定がやや似ている。だが、違うのは全体のトーンが、安易なセンチメンタルに流れず、硬質でリアルなこと。国家権力の凶暴さや残虐さ、無謀さ、貧しい農村の庶民の生活もあますところなく描かれ、主人公の若きガガーリン自身の人物像についても過度の美化はされていない(ように見える)。国が保守化し、過去へのノスタルジアが高まっている現代だからこそ作られた愛国映画という点では日本の戦争映画の制作背景と似ているのかもしれない。それでもあくまで知的で端正なのはロシア人の国民性なのかも。

これが実物のガガーリンと家族。ガガーリンは世界に名声が轟く英雄となるが、宇宙飛行の7年後、34歳の若さで謎の事故死。

これが実際のガガーリンと家族の写真。ガガーリンは世界に名声が轟く英雄となるが、宇宙飛行の7年後、34歳の若さで謎の事故死を遂げる。

私が見たロシア映画は「惑星ソラリス」に次いでたった2本目。惑星ソラリスで感じた深い知性をこの映画にも感じた。同じ宇宙映画でも何とアメリカ映画と違うこと。そしてロシア語の響きの何と美しいこと。

映画を見た後は、ロシアンティーを飲んでピロシキとボルシチが食べたくなった。日常を忘れて異世界にワープしたい人は是非この映画を。有楽町ヒューマントラスト(イトシア)と新宿シネマカリテで上映中!

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映画:イロイロぬくもりの記憶

今年は映画館に映画を見に行く機会がわりと多かった。それも、ミニシアター系のインドや、ドイツ、オーストリアなどの珍しい映画を。

そうした映画の中でも今年ナンバーワンはこの映画かも。

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【映画評】ベニシアさんの四季の庭

古民家に住み、庭作りを楽しみ、古いモノを大切にするスローライフ。

ターシャ•チューダーの大ファンの私としては、ベニシアさんのこの映画を去年、映画館に見に行くべきだったのだが、見逃した。ロードショーから1年遅れで自宅でDVDを鑑賞。

ベニシア•スタンレー•スミスさんは、NHKの「猫のしっぽ、蛙の手」で有名な京都大原在住の古民家に住む英国人ハーブ研究家。テレビで全国的に名が知れるようになったベニシアさんは数年前からハーブや自然の本も出している。

ベニシアさんの自宅の内装、穏やかな語り口、明るい人柄、暮らし方、作る料理や地元の人間関係、人生訓めいた自作の平易な英語の詩の朗読。テレビを通じて知る、様々な要素が渾然一体となった「大原発ベニシア風ライフスタイル」は魅力的なのだが、良く考えると、これだけ人気が出たベニシアさんの存在は、不思議と言えば不思議だ。

ベニシアさんは、何かの分野で突き抜けた専門家ではない。

正直、ベニシアさんの自宅のインテリアは、女性月刊誌やインテリア雑誌に出てくる家と比べると、野暮ったい。日本に長く住む「和好きの外人」に典型的な、1970年代の民宿っぽい不思議な和洋折衷スタイルなのだ。同じ田舎風でも米バーモント州のターシャ•チューダーの家や、白州次郎•正子の武相荘の和洋折衷の洗練された佇まいからはほど遠い。

武相荘

武相荘

同じ事がベニシアさんのファッションにも言える。赤毛の無造作なミディアムロングの髪にノーメイクの顔、藍染めのエプロン、絣のモンペ姿。少なくともビジュアルが彼女の人気の源泉とは言いがたいようだ。

それと比べると彼女の提案するイギリスの家庭料理は確かに美味しそうだし、デコレーションやテーブルセッティングは上品で温かい雰囲気。イギリスの昔からの知恵に基づくハーブを取り入れる生活も興味深い。

でも、彼女が長年の経験に裏打ちされた筋金入りの料理研究家やハーブ専門家でないことはすぐに分かる。彼女の料理やハーブは、他人に教えるとか、ブランド化して商品にして売り出すとか、そういうことを始めから狙ったものではなく、あくまで素人に毛が生えたような。。。という感じなのだ。

番組に自身が朗読するベニシアさんの英語詩も、映像を抜き去れば、あまりに何の変哲もないものだ。

ベニシアさんが、あらゆる分野で素人っぽいのはある意味当然だ。

現在60歳ちょっとのベニシアさんが古民家に移り住んで自然派の生活を始めたのはかなり遅く、40代後半になってから。彼女の「ロハス生活」はそれほど年期が入ったものではないのだ。

ベニシアさんは20代はじめに来日して、子供が生まれ、シングルマザーとなってからは、京都の市内で英会話学校を経営しながら子育てとビジネスに追われてきた。決して、ハーブや英国式ライフスタイルを一生の仕事にしようとして若い時からロハスな生活を追求してきたわけではない。

それでも京都の大原に住む一般人だった彼女にテレビ局が注目し、案の定、広く人気を獲得した理由は、彼女からにじみ出る「雰囲気の良さ」としか言いようがない。自然体の柔らかい日本語、美しい英語、優しい笑顔、佇まい、ユーモア。独特のパーソナリティに、大原の自然、古民家、英国風の生活スタイルが渾然一体となった姿に独特の魅力があるのだ。その魅力に、どんなハーブ専門家も料理専門家も、筋金入りのインテリア•コーディネーターも田舎好きも叶わない。

一体、ベニシアさんはどんな人なんだろう?

前半、テレビ番組に出てくる通りの「ロハスなベニシアさんの生活」を追った後、映画のメインテーマは突然変わり、思いがけず、彼女のプライベートに踏み込み、その過去や辛い家族関係に光を当てて行く。

イギリスの貴族出身だからといって、ベニシアさんは手作りの優雅な生活をずっと送って来たわけではない。20歳でイギリスを離れ、インド経由で来日した経緯。最初の夫と離婚して3人の子供のシングルマザーとなった。英会話学校を立ち上げて毎晩、団地に一軒づつビラを配った時代のこと。9歳年下の日本人男性との再婚と43歳での出産。出産後、やはりシングルマザーとなり、統合失調症を発症した次女。夫の浮気、家出、怪我。複雑な複合家族の人間関係。それらが次々と明らかになる。

「何もここまであからさまにしなくても。。。」と思うほど乱暴に過去が暴かれ、ベニシアさんの私生活の現在進行形の苦しみも浮かび上がる。映画を見終わると、「優雅にロハスな生活を楽しむ貴族出身の英国人女性」ベニシアさんのイメージは崩れ、「多くの苦しみと哀しみを抱えた人。そうした苦しみ克服するためにこそ『美しくロハス生活がもたらす平安』を大切にしている」という、ベニシアさんの逆説的な真実が明らかになるのだ。

一般に大人は、ひたすら自分の生活の苦しい側面や暗い過去をひた隠し、明るく健全な社会イメージを演出しようとする。ましてやライフスタイルやイメージを商品にして売る仕事をするタレントやセレブが、自分という商品の価値を下げるネガティブな側面を見せることは絶対にタブーだ。

そんななか、いくらドキュメンタリー映画でも、ここまであからさまに「悲しい部分」を他人に見られてしまったベニシアさんは可哀想な気がする。「有名人はイメージが勝負」のはずなのに。

映画を見た後は、暗黒面を持つ、不完全な姿のベニシアさんに強い共感を感じた。その笑顔と飾り気ない人柄、ハーブや田舎暮らしへの情熱の裏側にあるものを知ることで、単なる「お洒落な外人」に見えたベニシアさんとの距離感が縮まった。

真に貴族的な精神を持った人とはベネシアさんのような人なのだ。

というわけで、この映画は単に「お洒落でロハスなベニシアさんのライフスタイル」の映画ではなく、人間の人生の逆説性や難しさを、決して声高ではなく穏やかに伝えるメッセージ性の高い映画だった。冬があるから春が来る。負があるから正がある。冬がなければ春は来ない。負がなければ正もない。。。

ほろ苦い、40歳以上向けの大人の映画です。

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【映画評】めぐり逢わせのお弁当——The Lunchbox

7月のマダム•イン•ニューヨークに続いて、シネスイッチ銀座で2本目のインド映画を鑑賞。どちらの映画も金曜日のレディースデーは立ち見が出るほどの盛況。

マダム•イン•ニューヨークも、めぐり逢わせのお弁当も、インド西部の大都市ムンバイを舞台にした映画。マダム•イン•ニューヨークのヒロインはアッパーミドルの専業主婦なのに対し、めぐり逢わせのお弁当のヒロインはローワーミドルの専業主婦。階層が違えば、主人公のマインドセッティングもストーリー展開も変わってくる。 続きを読む

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ソーシャルの達人とアナ雪

フランス人の男性の旧友に、「パーティー=ソーシャル」の立ち回りが極めて上手な人がいた。

さりげなく人の間を歩き回り、人に声をかけ、 相手を思いやって相応しい話題を提供する。聞いて良いことと悪いことの違いをわきまえ、話の頃合いをわきまえ、適度に熱心に相づちを打ち、適度な頃合いを図って去っていく。抑制の効いた会話、シャレたユーモア、幸せそうな笑顔。彼の周囲にはいつ も幸せでエレガントなオーラが漂っていた。 続きを読む

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【映画評】永遠のゼロ

年始に「永遠のゼロ」を鑑賞した。

多くの人が「涙が止まらなかった」と絶賛するこの映画なのに、イヤな感じを受けた。ヒーローを美化するためにデフォルメされた箇所をイヤらしく感じたから。フィクションだからデフォルメは必要かもしれない。でも、この映画はそれが一本調子で安っぽく、「感動」を呼ぶために総動員され、甘ったるい感傷的な音楽をバックに見る人に思考を停止して涙を流すよう強いるのだ。安手のテレビ・コマーシャルのような。

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