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【書評】チャーズ―中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女

敦煌を旅行中、ガイドのメリーと一緒に、敦煌名物、ロバ肉入り麺のランチをしているときだった。

敦煌名物ロバ肉入りの麺

メリーはフェイクのグッチのリュックを背負い、伊達メガネをかけている。小柄で肉付きが良く、ちょっと稲田朋美に似ている。東京のセブンイレブンでレジ打ちをしていても全く違和感のない中年女性だ。

私はメリーに、「どうして敦煌に住んでいるの?」と聞いてみた。

メリーはこともなげに言った。「父が湖南省から甘粛省に移住してきて、母と敦煌で知り合って結婚したの。でも、父は結局、ここで餓死したのよ」と。

「ガシ」という言葉が刺さった。

メリーが生まれてから、食べ物がなくてお父さんが死んだということは、大躍進か?

敦煌は僻地だから、もしかしたら、大躍進が長引いて物流の麻痺や凶作の影響が長く続いたのだろうか?

好奇心はあったものの、メリーのプライバシーにそれ以上立ち入るのは止めた。政治的なことは話せないかもしれないし。

その代わりに、帰国後に「チャーズ」を読んだ。

「チャーズ」という本の存在は中国に行く前から知っていた。名作との評判が高かった。だが、あえて読む気は起きなかった。

飢餓、暴力、悲惨を描いたノンフィクションは読んでいて辛い。ましてや、それが実話、本人の体験談なら。私にはホラー映画や戦争映画の趣味はないし、もう小学生ではないから、「戦争は怖くて嫌だと思いました」と言うような作文を書く必要もない。

だが、メリーの一言から生まれた好奇心が私を本書に向かわせた。

もちろんメリーの父の死とチャーズの悲劇は別物だ。だが、両方とも中国の大地で起きた悲劇という点で共通点はある。

チャーズは中国建国前後の内戦時の長春で、戦前に満州に渡った作者の遠藤誉さんとその家族が実際に経験したことを、成人後の再構築したノンフィクションのドキュメンタリーだ。

当時、長春の街は国民党軍が支配していたが、その街が共産党軍に包囲された。外からの兵糧攻めに逢った街の人々は、どんどん痩せ、雑草や犬まで食べ、とうとう、人肉市場開設の噂が立つ。街からの脱出を図った日本人家族が街の内外の境界地域であるチャーズで見たものは。。。

緊迫感を持って最後まで一気に読了した。

兄弟が餓死すること、餓死者の上で眠ること、死んだと思っていた人の手が動くこと。。。。やはり描写はリアルで、とんでもなく怖かった。

肉体的苦痛を想像して戦慄したら、あとは自動的に「平和で豊かな日本で生まれ育ったことに感謝」の思考モードになってしまう。

特攻隊、戦艦大和、原爆、アウシュビッツ、東京大空襲、ベトナム戦争。7時のニュースで流れるひどい殺人、事故、災害などの悲劇。

全部、そうだ。

私たちはそれらを見聞きして、「怖い。。。」と思い、そういう恐怖がない「今の日本の自由で平和な日常」をありがたいと思う。そして、悲劇の教訓を探し、悪の根源を探し、それを憎むことで小市民的な精神の安定を得ようとする。

だが、本書の一番の怖さは、「そんな小市民的な感慨は無駄だ!」と読者を突き放すところだ。

「現実は、そんなもんじゃないんだよ」、と遠藤さんは言う。「それは、日本の侵略が悪い。。。」とか、「中国共産党の独裁が悪い。。」というようなものではなく、「戦争が起きないようにするには。。。」「家族の死を無駄にしないためには。。。」と考えること自体がそもそも間違っている、と言う。

チャーズは完全に国民党軍と共産党軍の馴れ合いによって起きた人災であり、数十万の人々の非業の最期には意味がなく、そこから教訓も引き出せない、と言う。自分たち家族や多くの人の肉体的苦痛が無意味で不条理だったと遠藤さんは言う。

チャーズの真因は、中国の厳しい原野の気候風土と「大地の法則」にある。それが本書の結論だ。人命をあまりに滑稽に弄び、個人の人生の価値を無意味化してしまう中国の大地の法則そのものを畏怖している。

それは法則なのだから、チャーズは不条理でなく条理だったのかもしれない、とすら言う。

さらに、遠藤さんは「もう嫌!たくさん!忘れたい!」と言いつつ、そういう中国の大地が同時に持つ、暖かい包容力、寛容さ、命を育む力に魅せられて、その後も中国と関わりを続けることを選んでいるのである。

個人に降りかかれば、一生に一度、驚天動地の悲劇であるチャーズも、鳥瞰的に見れば、それは繰り返されている。中国では似たような悲劇、人災が繰り返されてきた。チャーズの前には様々な内乱、その後にも、大躍進、文化大革命。。。。

もしそれが不可避な「大地の法則」なら、今後も、それは起きる可能性はあるし、法則なら起きるのが必然ということになる。

やれやれ。

メアリーは父の餓死の話の後、「息子がウィーチャットにハマっている件」をひとしきり話した。周囲を見回せば、上海や広州から来た裕福な観光客が嬌声をあげながらスマホで自撮りしている。

もしかしたら、満ち足りた様子の観光客の親兄弟は、もしかしたら、拷問死したり餓死したりしているのかもしれない。

いや、観光客自身が10年後にはチャーズの生き地獄を体験するのかもしれない。

食べきれないほどのご馳走を食べた私たちに、「食事は足りた?満足だった?満足だったらアンケートに、『満足だった』って書いてね」、とメアリーは笑って優しく言った。

世の中はシュールでグロテスクだ。

 

 

 

 

 

 

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中国旅行(4) 敦煌のソリ運び男

敦煌という町

砂漠のオアシス都市、敦煌はシルクロード河西四郡の最西端の都市だ。

新疆ウィグル自治区はすぐ隣だが、漢民族が人口の99%を占めている。一帯一路構想の戦略的立地にあり、観光で潤っている町は小さいながら、なかなか綺麗なところだ。

スイカ売りの三輪車。1個5元

敦煌のシンボルは飛天

昨年のシルクロード国際文化博覧会の会場となった劇場。度肝を抜くスケール

シルクロードの歴史よりも美術よりも、敦煌で心に残ったのは観光地で働く動物とヒトだった。

ラクダの隊列と観光ガイド

砂の砂漠をラクダの隊列が行く鳴沙山月牙泉。実にインスタ映えするスポット。

ラクダに乗っているのは全員、観光客

直射日光がギラギラと照りつけている。観光客は日焼け止めクリームをベタベタと塗った後で、布を体に巻きつけて完全武装して、にわかベドウィンになる。

生まれて初めて見るラクダの隊列。ラクダは意外と小さい。

「ラクダ、可愛いね!

「ラクダも大変よ。なにせ朝5時から働いてるんだからね」——中国人ガイドのメリーが低い声で言った。

メリーは自分が寝不足で辛いから、そう言ったのだ。

観光地のラクダ同様、ガイドの仕事は過酷だ。私たちの飛行機が遅延したせいで、一昨晩、彼女は夜中の2時まで私たちの到着を空港で待っていた。もし飛行機の到着が朝になったら空港で徹夜をしていただろう。それでも翌日の観光は8時から始まる。

観光は無数の黒子のおかげで成り立っている。ガイドのほかに、ホテルでシーツを替え、部屋を掃除する客室係。レストランの調理人やウェイトレス。運転手、切符切り、マッサージ師など。。。

観光に関わる仕事の多くは合理化が難しく、したがって生産性が低く、低賃金で非正規の労働が多い。そういう黒子たちの苦労のおかげで、快適で楽しい旅行ができる。

砂漠の滑り台

ここを滑る

鳴沙山はその名の通り、「砂が轟々と鳴る」ことで有名なスポットだ。風の侵食により砂に空いた天然の微細な孔のせいで、晴れた日に風が吹くと、砂同士の摩擦により、管弦や兵馬が打ち鳴らす太鼓や銅鑼の音のように聞こえる、という。そして、その音は、砂の上を人が滑ることでも聞こえるらしい。音を聞きたい多くの観光客のために、砂滑りコーナーがあった。

下で待っていて、砂滑りが終わったソリを回収する

快適に砂の上を滑るため、観光客には砂滑り用の木製のスノコのようなソリが貸し出される。砂山の頂上で、一台10元(160円)を払って業者からソリを借りて、ズズーっと滑るのだ。そして、滑りきった先で待っている業者にソリを返す。業者の男たちは返されたソリが7台集まるのを待ち、集まると、それらを背負って再び山のてっぺんまで運んでいく。

ひたすらソリを下から上に運んでは観光客に滑らせる、というシンプルなビジネス。

砂漠の体感温度は50度。朝5時から夜9時半までカンカン照りだ。そんななか、7台のソリを担いだ男たちは腰を曲げて、喘ぎながら、砂を踏みしめて険しい山を登っていく。一回の山登りにかかる時間は30分くらいだろうか。

男たちは汗を滴らせ、顔を歪ませ、「ウー」とか「ウォー」とか、雄叫びをあげながら、登る。登るすぐ、下りる。そしてソリを集めてまた登る。それを延々と1日中、繰り返す。男たちは砂漠の炎天下に1日中、肌を焼かれながら、ソリを運び続ける。

日焼けや熱中症どころの話ではない。そんな仕事は皮膚にも体にも良いはずがない。1台160円のソリを1回7台担いで、約1,000円。一日に何回、往復できるのだろうか。胴元のマージン、ショバ代、ソリの減価償却を入れれば、このソリ運び男たちの1日の稼ぎは2,000〜3,000円くらいだろう。

 

身体を資本にした肉体労働は人間の仕事の基本だ。全身の力を使って休みなく働き、それでもやっと食べいけるかいけないかのカツカツの生活。産業革命が起きるまで、世界の大半の人がそのように生きていた。私の祖先も、そうやって命を繋いできた。

21世紀の今も、世界にそういう人はたくさんいる。シンガポールの道路工夫。デリーの人力車引き。マニラのスカベンジャー(ゴミ漁り)。

AIもシンギュラリティも、全く関係ない世界。。。

観光客はキャーキャーと無邪気に歓声をあげて楽しんでいる。その横でソリ運び男は黙々と運び続ける。

 

マスツーリズムのど真ん中の中世

システム化されたマスツーリズムの底辺に、まるで中世そのままの仕事があった。

鳴沙山のラクダやソリ運びの男たちのリアルな汗と苦しみを見たら、シルクロードの歴史や美術はもう、どうでもよくなってしまった。

人余りの国に行くと、少子化も悪いことばかりではない、と思う。労働力の供給過剰なら、労働者を守る規制など生まれない。どんなに辛い仕事でも、それで現金が得られるならいくらでもやりたい人がいる。

だが、人が余っていれば、人の労働の値段も命の値段も安いままだ。

私の触れ合う人たちは、どのような人たちで、その人たちのもらっているお金はどれくらいで、どんな風に暮らしているのか?

人件費が高い国では、こんな仕事は成り立たない。アメリカでも日本でも、こんな仕事は機械がやる。

ここでも機械が導入されたら、過酷な労働はなくなる!

だが問題は、そうしたら人々が食べていける仕事そのものもなくなってしまう!

そうしたら、男たちはどうやって生きていく?

なら、どんなに辛い仕事でも、やはり、ないよりあった方がいいのか?

イエス。 あった方がいいのだろう。

だが。。。。人身売買や、少女売春や、児童労働は禁止されている。なら、あまりに過酷な低賃金の肉体労働はどうか?なら、動物の酷使はどうか?

結局、ラクダやソリ滑りはしなかった。10元が惜しかったからではなく、ラクダやソリ運び男がかわいそうすぎて、できなかった。

敦煌のソリ運び男に幸あれ。

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中国旅行(3) フライト遅延、キャンセル

教訓:

  1. 中国ではマスツーリズムが爆発中。旅行人口の急激な拡大のせいで、インフラが追いついていない
  2. 中国の国内便の運行は不安定。移動に飛行機を使うことは大きなリスクがあることを認識すべき。ましてやいくら安くても第三国へのトランジットに中国の空港を使うことは絶対避けるべし
  3. 中国の航空会社(私のケースはエアチャイナ)はトラブル発生時にルールに基づく対応がされない。非常時には「早く情報を得たもの」「ごねた者」が得をする。

 

今回の9日間の中国旅行は、飛行機の遅延、キャンセルのせいで、帰国が一日遅れた。北京、敦煌、夏河と、飛行機と鉄道を組み合わせて順調に楽しく移動しつつ迎えた8日目。あとは北京1泊して早朝に羽田便に乗り継ぐだけ、となったところでトラブルは起きた。

夏河からの飛行機が到着した西安の空港ターミナル。出発ボードの中国国際航空西安-北京便に”delayed”の文字。これがケチのつき始めだった。はじめは、「北京到着が遅れれば、ホテルに着くのも遅れて睡眠時間が短くなっちゃう」くらいに思っていた。

ところが甘かった。ボード上の予定出発時間はどんどん、遅くなる。夜10時まで待って、とうとう表示は突然、”flight cancel”に変わった。

飛行機の遅れやキャンセルは、どの国でもある。ただ、普通は天候や機材の整備などの「飛べない理由」が示される。トランスファーなどの問題があれば、代替案も示される。

ところが今回は違った。西安空港のアナウンスはひたすら、「(北京)空港が混んでいる。。。」というだけ。飛行機が飛ぶ可能性は?飛ばなかったらホテルは提供される?フライトキャンセルのせいで、乗り継ぎ便に乗り遅れたらチケット代は補償される?新しい乗り継ぎ便を、どのタイミングで、どう予約しなおせばいい? これらの疑問は最後まで晴らされなかった。

頼みの情報源のスマホも、中国国内の規制のせいでウェブ環境が悪い。旅行をコーディネートしてくれた中国の旅行代理店の担当者の携帯にも電話したが、何せ、夜の10時。彼女もお手上げのようだ。

抗議する私たちに、搭乗口の係員は「航空会社は欠航の責任は取らない」の一点張り。なぜか中国人の乗客は割と落ち着いていて、潮が引くように搭乗口から消えていった。「絶対、明朝、北京に着かなきゃならないんだ!明日の飛行機をどうやって予約すればいいんだ!」と係員に叫び続けるのは外国人、つまり私の夫とスペイン人の夫婦だけだった。

なぜ、中国人は抗議しないのか?不思議なのは、北京行きだけではなく、出発ボードの表示が「フライト・キャンセル」だらけなことだった。西安だけではない。蘭州でも敦煌もそうだった。一体、中国人はいつもこんな不安定な運行に慣れているんだろうか?

後で聞いたところ、嘘か本当か、中国の国内便は、単に乗客数が少なく採算が取れないとわかった段階でキャンセルされるらしい。乗客はホテルと代替便を提供されて、翌日出発する、というだけ。客は金さえ損しなければ、多少の時間の損には目を瞑るというわけだ。

国内便は遅延、欠航だらけ

深夜の西安空港の中国国際航空のカウンターで、私たちは気を取り直して翌日の北京行きフライトを予約した。私たちの悲壮な顔に係員の言葉はミステリアスだった——

「なるべく、キャンセルになりにくい便がいいわよね。じゃあ、出発時間は少し遅いけど、これじゃなくて、あれにしましょ」。

そう。どうやら、中国にはキャンセルされやすい便と、されにくい便があるらしい。

もう、どう頑張ってももう、翌朝の北京-羽田便には間に合わない。私たちは西安空港の地下のホテルにチェックインした。もちろん、自弁だ。携帯を充電し、中国国際航空に電話して、翌日の北京-羽田便を早朝便から午後便に変更した。「本当に午後便でいいんですね?明日の便にしときなさいよ。また乗り遅れても知りませんからね」と、電話の向こうのオペレーターは言った。

案の定、翌朝の西安-北京便も出発が遅れた。電話でのオペレーターの懸念通り、”delayed”の表示のまま、とうとう、午後便も乗り遅れる時刻になってしまった。私たちはもう、かれこれ、24時間も西安空港に閉じ込められている。なぜ飛ばないのか、理由がわからないままに。ようやく飛行機が飛んだのは夜6時も回った頃だった。

夜遅く、到着した北京空港のカウンターは、チケットの再予約、補償、ホテルの手当てなどを求めるあらゆる国籍の乗客でごった返していた。

私たちはカウンターで手を挙げ、叫び、係員にねじ込んで、なんとか、翌日の北京-羽田便への再振替(を証明する小さなメモ)を勝ち取った。

今晩もホテルは自弁かと覚悟していたら、「一人200元(3200円)の補償があるらしいです。それで各自、近くのホテルを予約するらしい」とそばにいた日本人が教えてくれた。

それで、その「200元補償」の長蛇の列に並んでいると、今度は突然、「エアチャイナからホテルが提供されるよー。こっちこっち!早く!」と、日本語を喋る中国人の男が私たちを呼び寄せる声が響いた。

ガセか。。。と思いつつ、私たちはその男のいる方に吸い寄せられ、列を離れた。補償の列のうち、半分はホテルを選び、残りは200元の補償の列に残っていたようだった。

人生の選択は常に非対称だ。人は自分の選択したものの価値がまだわからないうちに選ばなければならない。

不安な気持ちでバスに揺られて30分弱。暗闇に出現した巨大な高級ホテルに到着した。一部屋2万円くらいだろう。一人200元の補償よりずっとお得感があった。男の情報のおかげだ。

普段は航空会社のスタッフが使っているのだろうか?こんな立派なホテルが丸々、乗客の補償用に空っぽな状態にあるに驚く。だが、さすがい全ての補償客を収容できる規模ではないのかもしれない。

夕飯は中国2,3品の平凡なバイキングだったが、お金を払ってビールも飲めた。シャワーですっきりし、ふかふかの快適なベッドで就寝した。

翌朝4時半に起床、5時にはバスで再び空港へ。この時間からすでに北京空港の出発フロアは大混雑だった。

案の定、羽田行きの便にはまたもや”delayed”のマークが付いた。この48時間の経験のせいで、遅れくらいでは驚かなくなっていたが。

空港に居合わせた日本人の何人かから話を聞いた。

その多くが私たちと同じか、それを上回る苦労をしていた。新疆ウィグル自治区を回るはずが、欠航のせいで行きたい所に行けず、帰国する二人組。北京経由の格安航空券で、カナダで夏休みを計画していたのに、やっとハンクーバー便が飛ぶころには、もう夏休みが終わりかけだという女性。。。。私たちは旅行の最終盤でトラブルに見舞われたのがせめてもの救いだったと言える。もし、旅行の最初にこうなっていたら、と思うと、せめての幸いだ。

結局、若干の遅れで北京-羽田便は無事、離陸した。やっと、帰れる。ほっぺたをつねりたい気分だ。

島国日本人の想像を絶する無秩序、大雑把、小さな個人の権利。中国という国の荒々しい姿を体感できた貴重な旅だった。

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中国旅行(2):チベット、夏河、ラブラン寺

2008年の騒乱以降、チベット自治区内は外国人は個人旅行ができなくなっている。だが、それ以外の「チベット文化圏」の旅行は自由だ。15日以内の中国旅行の枠内でノービザで行くことができる。

チベット人人口の半分程度はチベット自治区以外に住んでいる。チベット文化圏はチベット自治区(TAR)以外にも、四川省、雲南省、青海省、甘粛省に広がっている。

https://tibetantrekking.com/wp-content/uploads/Tibet-Map-Large.jpg
AmdorとKhamの地域はチベット自治区に入っていないチベット文化圏

というわけで、今回は甘粛省の甘南蔵族自治区を訪問した。

私にとって2度目の「中国国内」チベット文化圏の訪問だ。

甘粛省の州都、蘭州を9時に出発して車で南西に進む。

蘭州駅。敦煌から高速列車で着く駅はこの旧駅から1時間ほども離れたところにある新しい駅だった。

途中、モスクが点在する回族の居住区(臨夏回族自治州)の永靖で回族料理のランチを食べた。

中華料理だが、豚肉の代わりに羊肉、ご飯の代わりにパン。。み物は、ジャスミン茶にナツメや氷砂糖などをいれたものだった。イスラム教徒の店なのでビールはなし。

羊肉は生のニンニクと一緒に食べるとよいとのこと。

 

見た目は綺麗だが、味は薄くてそんなに美味しくなかった

出発前はウィグル族と回族の違いすらわからなかったが、旅行しているあいだにわかるようになった。

回族はイスラム教徒だが中国語が母語。漢族と雑居している。

回族の清真料理のレストランは中国の至るところにある。日本にないのが不思議なくらい?回族の男性は白い帽子をかぶって、地味な服を着ている。

一方のウィグル族はトルコ系でウィグル語。主に新疆ウィグル自治区にまとまって住んでいる。

3時くらいにチベット文化圏、夏河(サンチュ)に到着した。チベット人の居住地域が近づくごとに高度が上がり、気温が下がり、快適な草原地帯になる。サンチュは標高2900メートル。さいわい、家族の誰も高山病の症状はほとんど出なかった。

中国の平原はどこも夏、暑いから、涼しい草原地帯のチベットは漢民族にとっても格好の行楽地になっている。

中国はマス・ツーリズムが爆発中。マイカーの個人旅行も多い。

ラブラン寺の前には広大な駐車場と巨大なレストランが整備されていた。

遊牧民の生活様式、チベット仏教の深い信仰、独特のランドスケープ。チベットは、日本人にとってと同じくらい、中国人にもエギゾチックなのだと思う(中国にもチベットにハマる若者がいるらしい。「蔵漂」と言うそうだ)。

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征服民は、非征服民を完全に支配し、人畜無害化する。そうしてしまったあとで初めて、「ここには何かがある!」とその文化が愛せるようになるのかもしれない。

ラブラン寺の周辺の草原では、チベット人遊牧民の定住政策が進められていた。

遊牧生活で家畜が草を食べ過ぎると草原の環境に悪い影響を与えるから、放牧地域を制限している、というのが中国の公式の説明だ。

一方、インドのチベット亡命政権は、「ちがう。数千年のあいだ、チベットの遊牧民こそ草原をサステイナブルに管理してきた。チベット人を置き去りにした中国による採掘や漢民族の移住、鉄道や軍事施設の建設が環境破壊をもたらしている。チベット草原を遊牧民の手に返せ!」と主張している。

中国がチベット族遊牧民による抗議を激しく鎮圧

 

中国は遊牧民を「近代化」し、その生活水準を引き上げようとしている。

どんな国も、国民の生活を「近代化」し、その生活水準を引き上げようとするものだ。

そして、「近代化」の度合いは、年収や識字率や医療へのアクセスや平均寿命によって測られる。

かりにチベットが独立国だったとしても、やはり自国を近代化しただろう。だから、遊牧民の生活は、たとえ中国の関与がなくてもやはり、昔ながらのままではないだろう。

歴史を紐解けば、遊牧民が農耕民族を圧倒した時代もある。むしろ、その時代の方が長いほどだ。モンゴルの遊牧民は中国に侵入し、そこの農民の生活を見て、不潔で暑苦しい環境でチマチマと暮らしている中国人を心から軽蔑した、という。

だが、時代が進んで近代になると、遊牧民の分はどんどん悪くなっていった。

「この人たちは計算ができない。怠け者だし仕事が遅い。祈ってばかりで非生産的。一生お風呂に入らない人もいる。女性はパンツも履いていないし、家にはトイレもないのよ」ーー若い美人の中国人ガイドはチベット人についてそう言った。

定住して遊牧しなければ、一世代で遊牧のし方も完全に忘れてしまうだろう。

1日中、やることがなく、ブラブラと定住地区を手持ち無沙汰にうろつく若者たち。観光客に踊りを見えたり、馬乗りをさせたり、テントの中でチベット服で写真撮影することでかろうじて現金収入を得る人たち。その横で大量の観光客向けの大規模な土産屋を牛耳っているのは漢民族ばかり。

 

アリゾナを旅行したときに見た、インディアン居住区のインディアンと似ていた。

物質的には良くなっている。でも文化や自活力は刻々と失われている。

プライドや自主性を剥ぎ取られ、茹でガエルのように二級市民、見世物としての存在に落とし込まれていく。言葉も、コミュニティも、協力し、再生産していく力も考える力も剥ぎ取られていく。。。

2010年以降、焼身自殺を選ぶチベットの若者が理由がなんとなく理解できるような気がした。

焼身自殺しか策がないチベットの悲劇

もし、チベットが独立国で、チベット人がチベット高原を自分の国として管理していたら、彼らはどのように暮らしていたのだろうか?

もし、これから中国から独立を勝ち得たら、チベット人はチベットをどんな国にしようとするだろう?

中国が分裂したら?

そんなことを考えながら、草原を歩いた。

遊牧民は、踊りを踊ったり、馬に観光客を乗せたり、「観光」が生きる道担っている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピン旅行

時が経つのが早いです。

一ヶ月前のフィリピン旅行の写真を備忘録代わりに下のサイトにまとめました。よかったらご覧になってください。

http://4travel.jp/travelogue/11256631

同じ途上国でも、スリランカは貧しさよりも調和の取れた自然と文化に目が行きましたし、ネパールでは中世都市文化の絢爛さに心奪われました。インドのダラムサラでは仏教の精神文化の気高さを学びました。

それからすると、フィリピンの短い旅で私が学んだものは、グローバル資本主義の荒々しさ、格差社会の実態、そして、その背後にある歴史の根。。。。
グルメ、観光、リゾートの快楽は少ない分、たくさん、考えるための糧をいただいた旅でした。

 

 

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【書評】バナナと日本人

今も同じなのが驚き

「変化」はニュースで報道されるが、「変わらないこと」は報道されない。世界が大きく変わる中で、この国では古い問題が今もずっと続いていて、むしろ深刻化している。本書は、バナナを通じたミンダナオ島の社会・経済構造のフィールドワークだ。今から35年も前の、多国籍企業による搾取や南北問題なんて、古い。。。。はずだった。が、全然、そんなことはなかった。

フィリピンは21世紀の今も、旧宗主国、多国籍企業、一部の特権階級に収奪され、痛められ、荒っぽいグローバル資本主義に翻弄され続けている。

相変わらず、日本のスーパーはドールやデルモンテブランドのバナナが並んでいて、一房100円。干しマンゴー、パイナップル、家政婦。フィリピン産のものはなんでも安い。

本書から35年。フィリピン経済はやっと成長が始まり、コールセンターなどの外資のBPO拠点の投資が進んでいる。。。と聞いていた。だが、行って見れば、そこで働くフィリピン人の月給は3万円。フィリピン人に与えられている仕事はいずれは人工知能によって代替されるものばかり。インフラが機能不全のマニラはほぼパンク状態で、人々は青息吐息で生きている。

農産品からサービス産
業へとところが変わっても、外国と特権階級による民衆搾取の構造は同じ。

そこへ2017年5月、ミンダナオ島で戒厳令が敷かれた。

「アメリカは俺の国の富を貪った(America lived on the fat of my land)」、「欧米はいつだって二枚舌」とドゥテルテ大統領は怒っている。なぜなのか。本書の丁寧な叙述はそうしたことを理解する助けにもなった。
イロイロシティでの朝食
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ダラムサラ旅行⑤——チベット語

ダラムサラで良かったことは、チベット語のシャワーが浴びられたこと。

といっても英語が十分通じるし、なんといってもそこはインドだから、チベット人コミュニティを少しでも離れるとヒンディー語が優勢になる。ここに住むチベット人の大半は、チベット語、英語、ヒンディー語のトリリンガルだ。

チベット亡命政権のお役所の看板は、チベット語、ヒンディー語、英語の3カ国語表示

チベット亡命政権のお役所の看板は、チベット語、ヒンディー語、英語の3カ国語表示

というわけで、実際には朝から晩までチベット語に浸りきるといった状況ではなかったものの、少なくとも、そこにチベット語で生き生きと展開される世界が存在し、自分がそれを垣間見ているという実感はあった。1週間、世界中から集まった人々と共に、ライブラリーの基礎クラスで初歩の発音と綴りを復習することが出来た。これは、ともすれば日本で失われがちだった、チベット語学習の動機付けを取り戻す上では最高の経験だった。

ネパール、ボダナートのチベット語の表示。「サカン=レストラン」という意味。去年は読めなかったが、今年は読める!

ネパール、ボダナートのチベット語の表示。「サカン=レストラン」という意味。去年は読めなかったが、今年は読める!

チベット語を学ぶ動機が失われがちなのは、それがあまりに使い途の乏しい非実用的な言語である反面、語学習得が根気の要る遅々としたプロセスだからだ。

こうした動機の喪失は、世界のマイナー言語を自らの興味と関心に基づいて「趣味」として学ぶ全ての人が陥り易いリスクだろう。何のためにコストと時間をかけて勉強しているのか、自分でも分からなくなってしまう時があるのだ。

愛用のMac PCの「環境設定」で「言語と地域」を選択すると、160あまりの言語名が現れる。70億人の人類が、少なくとも、これだけの別の言語で私のiMacと同じ、アップル社のコンピューターのキーボードを叩いていると考えるとクラクラしてくる。

チベット語を母語とする人は現在、世界で470万人、世界108位の言語。これを第二言語とする人はほとんどおらず、公用語とする国もないという点で、チベット語は超マイナー言語といえる。

チベット語の魅力はチベット文字の美しさの魅力でもある

チベット語の魅力の一つはチベット文字の美しさ

それでも、他のマイナー言語と比べると、チベット語を学ぼうという外国人は多いはず。それは、チベット語がチベット仏教を学ぶための入り口としての言葉だからだ。聖書を学ぶ人がヘブライ語を学び、イスラームを学ぶ人がアラビア語を学ぶように、仏教を学ぶ多くの外国人がチベット語を学んでいる。

私も今回、ダラムサラで仏教講座を聴講し、チベット語でお経が唱えられるようになったらいい、仏教用語がチベット語で理解できたらいいと強く思うようになった。

言うは易し、行うは難し。チベット語は母音の発音が日本語よりずっと豊かで、日本語にない音が沢山ある。中国語のような声調もある。そして、チベット語の表記はかなり難易度が高い。チベット文字は表音文字で、漢字と比べるとずっと数も少ないのだが、発音と綴りが相当、乖離していて、書いてあるものを読むところまで行くことのハードルが極めて高い。あらゆる語学と同じで、ひたすら毎日コツコツと積み上げるのが上達のコツだとは分かるのだが、最大の課題は時間の捻出とモチベーションの維持なのである(チベット語にも英語のようにTOEFLや英検があればいいのに。。。。)

かれこれ2年ほども「ワタシ、ニホンジンデス」のレベルで止まっている私のチベット語。

初級レベルを超えて行くためにはダラムサラで1年くらいエマージョン•プログラムに浸りたいのだが、残念ながらそういうわけにも行かない。東京では、週に1回、2時間の授業を続けるだけで精一杯。

少なくとも、他の言語には浮気せず、ゆっくり地道に勉強を続けたいと思う。

来年の今ごろ、そして10年後、私にはチベット語でどんな世界が見えているのだろうか。。。

 

 

 

 

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ダラムサラ旅行⑤——ライブラリーの仏教講座

決して仏教を学ぶことをメインに据えたわけではなかったのだが、ダラムサラが極めて仏教的な場所だったことから、結果的に今回の旅では仏教についての考察を深めることになった。

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ダラムサラ旅行④——コルラする人々

ダラムサラは、去年のネパール、ボダナート(↓)に次いで、私が訪れたチベット人が多く住む2つ目の場所。

ボダナートではこのストゥーパの回りを多くの人々がコルラ(巡礼路を回る)していた。五体投地しながら回っている人もいた。

ネパールのボダナートではこのストゥーパの回りを多くの人々がコルラ(巡礼路を回る)していた。五体投地しながら回っている人もいた。

ロングヘアを後ろで一本のおさげにして、手に数珠を巻いて、横ストライプのエプロンをしたおばあさんや鳥打帽を冠ったおじいさんなど。写真でしか見たことのな かったリアルの民族衣装の人々が道を通り過ぎる姿は、それだけで眼福、旅の醍醐味。少しすると、たちまち目が慣れてしまうけど。。。

これはダラムサラ。TIPAで行われたショトン•オペラの帰り。

これはダラムサラ。TIPAで行われたショトン•オペラの帰り道。

さらなる旅の醍醐味は、そこに写真では伝わらない匂いや味、光や温度が加わること。お香と土ぼこりの混じった匂いに、人々がモゴモゴと唱える観音菩薩のマントラ「オンマニペフム。。。」の合唱。時々遠くの窓から聞こえてくる僧侶の低い読経の声。これは、マレーシアのペナンの街で、朝、アラビア語のアザーン(礼拝への呼びかけ)の声で目覚めるのに比肩する清心な体験だった。

ちなみに、スリランカ、タイなど、これまで訪れた仏教国で、ボダナートやダラムサラくらいに、街角から濃厚な仏教色が伝わってくる場所はなかった。数ある仏教徒の中でも、とりわけチベット人は仏教にのめり込んでいる民族なのだと実感した。

今回のダラムサラ滞在では、ゲシェ(=仏教博士)の仏教講義を聴講して、チベットの伝統的な仏教哲学の内容と学習方法を垣間みることが出来た。だが、仏教体験ということでは、それと同じかそれ以上に、街全体に漂う人々の民間信仰から感じられるものがあった。

チベットの民間仏教信仰は、なぜか、マニ車を回したり、巡礼路を回ったり、「回る」要素が濃厚だ。マニ車をクルクル回したり、巡礼路を回りながら、お経を唱える。回り、唱えることで功徳を積む。帰依を深める。

http://muza-chan.net/japan/index.php/blog/rare-prayer-wheel  ダラムサラで撮り忘れたので、マニ車の写真を拝借しました。これは何と、日本の寺にあるものだそうです。

http://muza-chan.net/japan/index.php/blog/rare-prayer-wheel ダラムサラで撮り忘れたので、マニ車の写真を拝借しました。これは何と、日本の寺にあるものだそうです。

回る代わりに、私たち日本人は神社でお賽銭をチャリンと入れて柏手を打ったり、お寺の仏像に手を合わせるわけだが、チベット人は「回る」「回す」分、参拝に時間がかかる。それも一回だけではなく、何度でも、回し、回る。そして、回したり、回っているあいだは、ずっと数珠をまさぐりブツブツと唱える。さらに熱心な人は、全身の筋肉を使って五体投地する。五体投地して回ったり、カウンターを持って、回数を数えながら仏前で五体投地し続ける。これだけでも 私たちの淡白な参拝スタイルとは随分、違っている。

さらに、私たちと比べてチベット人は参拝頻度が圧倒的に高い。どの家に行っても仏壇があるし、誰でもとにかく暇さえあれば礼拝し、ブツブツ唱えている感じである。昼間に寺にいるのは老人や小さな子供を連れた母親などが多いものの、夕方になると、仕事帰りの老若男女多くのチベット人が寺を集い、ブツブツ唱え、コルラして、心を整えて一日を終える。。。という感じである。

こうした熱心な信仰の背景には、生前に少しでも多くのコルラをし、マントラを唱え、善行を重ね、功徳を積めば、より良い転生を迎えることができる、という信仰がある。輪廻転生の思想が完全には浸透しておらず、どちらかというと祖先崇拝が強く、神仏に祈る内容は現世利益が多い日本人とチベット人は、そもそも祈る内容や姿勢が違うのかも。。。と思った。

とはいえ、よく考えれば日本にもお百度参りや巡礼の伝統はあるし、熱心な仏教徒はいる。必ずしも日本人とチベット人の信仰心が本質的に異なっているのではなく、違いはむしろ、都会と田舎の人々の信仰心の違いなのかもしれない。仕事やレジャーに多忙な不信心な都会民の代表である私は、わざわざダラムサラまで来て、「忘れてしまった過去の祖先の生活」に単に郷愁を抱いているだけかもしれない。

それでも今回、現地の人に教わりながら、コルラをし、マニ車を回し、五体投地に挑戦し、マントラを唱えてみた。すると気ついたことがある。仏教のシンボリズムへの物理的エクスポージャーの高い生活、身体を使った参拝は、確かに精神衛生やストレスに効く、ということである。

仏教は人生の本質を苦と定義し、悟りによる人類の苦からの解放を解く。その苦の原因となるのが、絶えずこころに浮かんでくる「マイナスの感情」である。私たちのストレスは、このマイナスの感情が元になっていることが多い。こうしたマイナスの感情が発生するメカニズムを探り、それが発生しないようにするための心の訓練が瞑想であるわけだが、一方、そうした瞑想修行が叶わない衆生も、数多くのコルラ、マントラの詠唱、五体投地を心を込めて行い、功徳を積もうとすることで、少なくとも、それを行っている最中は、無駄な欲望やマイナスの感情を抑えられる、というわけである。その理由は単純なもので、人間は1度に二つ以上のことをうまく出来ないからだ。少なくとも参拝している間は、マイナスの感情は中断せざるを得ない。

あるいはイスラム教徒の1日に7回の礼拝の義務とも似ているかもしれない。だが、1日7回の礼拝の義務で得られる最大の効用は、礼拝によって、放っておくと自動的に湧き上がってくる欲望、悪い心やネガティブな感情をそこでリセットして、心を掃除できることにあるのだろう。

そして、チベット人のコルラやマントラ詠唱もそれと似た効果があるのかもしれない。単に歩いたり、回したりすることでは、空や菩提心の哲学といった難解な仏教思想の理解には到達できないかもしれない。しかし、少なくとも、今ここにある、マイナスの感情の流れを中断させ、心をニュートラルな状態に持って行くことが出来る。平安な心の状態を保ち続けることこそが人生で大事なことであり、それよりも重要な物質的、社会的達成なありえないんだよ、という価値観がその根底にはある。

今回、私は初めて現地の多くのチベット人が手にしている数珠を購入してみた。数珠を手首に巻いた旅行客なんて一昔前のヒッピーみたいでイヤだと思っていたのだが、一線を超えてみた。実際に数珠を巻いて、常に手首にそれを感じてまさぐっていると、「仏様を忘れちゃいけないよ」「いつか死ぬことを忘れちゃいけないよ」「自我なんてないんだよ」「怒っちゃだめだよ」と常に心にリフレインが入り、少しだけ心が落ち着くことに気がついた。

たとえ物質的な目標を達成しても、社会的成功を収めても、心がマイナスの感情で満たされていたり、他人を憎んでいたり、孤独感に苛まれるなら、そうした目標達成にはあまり意味がない。「私はあそこで、ああするべきだった」「あの人は何で、このように振る舞うのか?」「将来、こんな風になればいいのに」。無駄なことをクダクダ考え続けるくらいなら、コルラして、五体投地して、マントラを唱えて、そもそもグルグル湧き上がる思念には何ら実質がないという仏様の教えに帰依する方がいい。そんな風に思った。

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少なくとも、無為なネットザッピングやおしゃべりをするくらいならコルラを。ジムでトレッドミルをやるなら、五体投地を。なぜなら、それは、心と身体の両方に効く一挙両得の手段だから。でも日本では五体投地、できる場所、あまりないですよね。。。

 

 

 

 

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ダラムサラ旅行③——国を失った人々

ダラムサラ旅行の過去2回のアップを自分で読み直して改めて思うのは、新しい国や土地を訪れるとき、現地の経済的現実(=物質的豊かさ)に最も敏感な自分自身である。

どんなモノが高いか、安いか。どのようなモノが売れていて、人々がどのようなモノを着て、食べて、暮らしているか。貧しい人はどのくらいいるのか。どのくらい貧しいか。経済は上向いているのか、低迷しているのか。この国は「売り」か、「買い」か。

長年、証券業界で経済に関わる仕事をし、常に経済からモノを見る性分が染み付いているからだろう。また所詮、旅行者の立場では、目に見える人々の暮らし向き以上の内面まで見通すのは難しいのも事実だ。また戦後育ちの典型的日本人である私は、基本的に政治•宗教オンチだということもある。

とはいえ、やはりダラムサラのチベット社会を語るのに、経済的印象だけではあまりに表面的だ。なぜなら、ダラムサラのチベット人社会は国を失った人々の社会だからだ。

モノの安さや自然の美しさにまして私がダラムサラでしみじみ感じたのは、「国を失うこと」の哀しさだった。

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亡命社会が普通の社会と違うところは、前者が「国を失い、他人の国に居候し、いつか自国に戻ることを希求する人々が作っている」社会だということだ。これは政治的社会的に極めて特殊な状況だ。そうした特殊な状況にある亡命「チベット」の支援は、一般的な途上国支援や被災地支援とは全く質的に違うものにならざるを得ない。

どんなにダラムサラの自然環境がのどかで美しく、その開かれた社会が外国人を惹き付けるものであっても、法王様の教えがありがたくても、チベット人が微笑みを絶やさず、穏やかで落ち着いた人々で、その存在がグローバル資本主義に疲れた先進国の人々を癒す存在であっても、ダラムサラは亡命当初から見違えるほど発展し、多くの亡命チベット人の「ふるさと」になっていて、子供たちの教育はかなり先進的なものだとしても、すでにチベット人の大半は経済的な極貧状態を脱していても、そうした全てにかかわらず、<国のない状態に留まり続ける無国籍の人々>が作る亡命チベット社会のリアリティは極めて厳しいと感じられた。

それは、経済的厳しさ以上に、精神的な厳しさである。

あるいは亡命中の人々が抱える精神的な厳しさは、それを体験したことのない者には想像を絶するものかもしれない。

なぜなら、亡命とは、永続的ではない仮の状態だからだ。亡命チベット人は、もう56年も「いつか帰れるかも」「もう帰れないかもしれない」という不安定な仮住まいで落ち着かない生活をしている。

チベットからインドへの亡命者は皆、政治亡命者だ。昔、アイルランドからアメリカに渡った移民や中国からシンガポールに渡った移民のように、祖国で食い詰めて、国を捨てて移民し、そこで新たな国に忠誠を誓い、個人的な幸福を追求する経済的移民ではない(純粋に経済状況で言えば、今となっては一部中国領土内のチベット人の方が亡命チベット人よりずっと富裕だったりするらしい)。

また、見た目が似ているものの、ブータン人、インドのラダック地方の人々、ネパールのシェルパ族のような、いわゆる「チベット文化圏」に生まれたローカルな人々とチベット本土から外国に政治的に亡命した人々は、やはり立場が全く異なっている。

ダライラマ法王と共に、あるいはその後、チベット本土から亡命してきた人々は、「いつか政治状況が改善してチベットに帰れるだろう」と考えて、親戚友人を残したまま出国し、その後も無国籍の暫定状態で闘争を行ったり、事の推移を見守ったりしながら異国で生活してきたわけだ。

そうした暫定状態がかれこれ、56年も続いているのである。

これは精神的にとても疲れることだろう。

無国籍ということは、海外渡航や土地取得といった基本的権利が制限され、居住する国の参政権が与えられず、他人の土地(=インド)に無期限に「居候」状態を続けることを意味する。そうした居心地の悪い「とりあえず。。。。」「いつか。。。」の状態が長々と続き、すでに亡命社会の主流は祖国の土を踏んだことのない二世、三世の時代になっている。ますます強大になり、チベット人の同化政策を進める中国の動向を見れば、「もう帰れないと考えた方が現実的だ」、「もし帰れることがあっても、もう帰らない方が幸せだ」、「どうせ帰らないなら、最も生存条件の良い国で暮らしたい」と考える亡命チベット人が出て来てもおかしくない。そうした亡命者はインドに留まらず、欧米やオーストラリアに移住し、そうした豊かな国の国籍を取得し、そこに根を下し、子孫には個人としての「より明るい未来」を与えようとする。

民族としての団結と分断。いつ、どうなるか分からない不安定かつ暫定的な状況で、亡命チベット人たちは個人として究極の厳しい選択を迫られつつも、集団としては国家のクリティカルマスにほど遠い極めて少ない人口(12万人)の人々が、本土(人口600万人程度)から切り離された状態で、民族としての再生産、アイデンティティ保持と、帰還に向けた政治的闘争において亡命政権を支えて何とか必死に頑張っている、というのが現状である。

もちろんダライ•ラマ法王は先頭で、頑張っておられる。亡命チベット人を指導し、鼓舞しつつも、民族の枠を超えて全人類に慈悲を注ぎ、非暴力と人権擁護で世界に強い影響力を行使している。ダライ•ラマの14回目の転生という政教両面の正統性と、清廉で高貴な言動、姿勢は、固有の民族としてのチベットの統合の象徴として無比のものである。民主的な亡命社会を築き上げ(三権分立と普通選挙が実現している)、かつチベットの伝統の宗教文化を継承し、しかも国際政治でチベット問題が忘れられないよう、一貫して真摯にアピールし続けて来た法王をチベット人は生神様と慕って尊敬している。

だが、その民族の象徴である法王が1980年代に打ち出され、現亡命政権が継承する政策は、「中道アプローチ(middle way policy)」。つまり、中国の圧倒的な国力と占領の既成事実化を背景に、独立への国際的支持が得られない国際社会の現状に鑑みて、中国のチベット占領を容認し、独立を放棄し、中国憲法の枠内でのチベット人の対等な立場での「真の自治」の実現を提案する、というものだ。

http://www.dalailamajapanese.com/messages/middle-way-approach

この政策が実を結べば、法王の帰還は叶い、チベット本土のチベット人の人権状況は大幅に改善されるかもしれない。法王が帰還すれば、多くの亡命チベット人もまた帰還するだろう。だが、亡命チベット人にとって、中道アプローチの実現は、ダライ•ラマ法王も自分自身も、自分たちの子供も「中国人」となることを意味する。同胞を虐殺し、自国の文化を破壊した国に忠誠を誓う国民になることを意味するのだ。

中国領の祖国に帰還し、中国人になる。そんなの絶対いやだ、といって、独立の狼煙を決して下ろさないチベット人がいるのも当然だ。独立派は、決して夢想家なのではない。現実的に考えてチベットの独立が極めて困難なことは重々理解している。だが、民族独立への希求とモメンタムを失い、国を奪った暴力的な敵に自治を与えてくれるようお願いし、その傘下で文化や伝統を維持していくことを期待していくということによって、民族としての気概や精神が失われて行くことの方が危険なことだ。独立派の人々はそう考えるのだ。

http://www.bignewsnetwork.com/index.php/sid/226620737

ダラムサラでは意外なことに、中国領チベット本土のテレビ•チャネルが2つも見られた。そこではチベットの民族舞踊や、チベット語吹き替えの中国のメロドラマなどが放映されていた。

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ダラムサラのチベット人にこうしたチャンネルについて聞いてみた。「ええ、よく見ますよ。でも本土のチベット人のチベット語の発音は中国化してるんですよ。イントネーションが違うんです。それからファッションもちょっと変。中国人と生活しているから、だんだん中国化していているんです。私たちがインド化しているのかもしれないけど」と笑っていた。

異なる体制と状況下で生活していると、最初は同じだった文化や言語、そして価値観さえもジワジワと変質していく。もしかしたら韓国人が北朝鮮の人々に対して覚える感覚なのかもしれない。あるいは日本も太平洋戦争後に北海道がソ連領になっていたら、「北海道の日本語はロシア語化している!」と私たちは思い、北海道の日本人は、「本土の日本語はカタカナの英語混じりで変!」ということになっていたのかもしれない。

本土占領と民族分断の既成事実があまりに長く続くなかで、徐々に色あせて行く独立や帰還への強い思いやモメンタム。暫定的であり、仮住まいであるがゆえに、腰を落ち着けてじっくりと数世代に渡るビジョンを持って、土地に根ざして国作りに邁進できない亡命政権の宙ぶらりん。国と民族を思う気持ちと、個人や家族の安定や幸せを求める気持ちの葛藤。

2008年以降、中国側の国境管理の強化や、ネパールのチベット人への厳しい入国管理などのせいでチベット本土からの亡命者が激減した。そうした中でインドで高等教育を受けた亡命社会のチベット人はダラムサラや居住地に留まらず、海外に流出する傾向にあり、亡命社会では、(文化の砦である)僧侶へのなり手や伝統工芸の担い手が少なくなっているという。

これが亡命社会でない通常の社会なら、村おこしや産業の誘致による地域振興や起業で若者を引き止めようとするモメンタムが働くだろう。だが、もし亡命地での生活の本質が、どれだけ長くなろうとも相変わらず暫定的な根なし草の状態なのだとしたら。より大きな自由や安定を求め、個人でリスクを負って新天地に旅立とうとする若者を誰も引き止めることは出来ない。

だが、新天地に旅立った若者の将来がハッピーエンディングかというと。。。。

やはりそうした若者もまた、移民としての苦労に加え、失われた祖国への思いと、アイデンティティ喪失に苦しむ。

砂のように流れ出しそうな不安定な、小さな亡命社会。それを糊としてかろうじてつなぎとめている80歳のダライ•ラマ法王の存在。

もし、日本が外国に占領されて、私が天皇と共に外国に亡命したたった12万人の日本人の1人だとしたら、私はどう生きるだろうか?天皇陛下はどのように振る舞われるだろうか?亡命した私たちはどのように日本語や、日本文化や伝統を守るだろうか? 日々、多くの同胞が巨大な監獄で民族のアイデンティティを抹殺されていくことをどのように感じるのだろう?

そう考えることで初めて、私たちはチベット問題を身近な問題として感じることが出来るのだと思った。

ここに書いたことはわずか12日間の旅行記にしてはあまりに僭越かもしれない。チベット人の友人が読んだら怒るかもしれないし、事実誤認もあるかもしれない。でも、亡命政権の方々との様々な話や現地で感じた印象が鮮烈なうちに書きたかった。6年間、未熟ながら日本の事務所で亡命政権のニュースリリースの翻訳ボランティアをし、私なりにチベット問題を理解しようとしてきたことに免じて許していただければと思う。

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