ひとりごと」カテゴリーアーカイブ

幸せ3ーー五感の歓び

悲しいこと、辛いことがあったとき。美味しいものを食べ、いい音楽を聞き、いい絵を見て、面白い映画を見て、エステやマッサージに行く。

人は気持ちの良い感覚を、目、鼻、口、耳、肌の五感から感じる。

美味しいものは舌を喜ばせ、映画は目を喜ばせ、音楽は耳を喜ばせ、マッサージは肌を喜ばせる。

素敵な花や焼けたばかりのパンの匂いを嗅ぐ幸せ。それは、前回の記事で分析した、生活が便利になっていく幸せ、変化率を楽しむ幸せとは少し違う。

五感を楽しむ=感覚的快感は、幸せというより快楽(pleasure)かもしれない。

快楽は本当の幸せではない、という人もいる。一時の欲を満たすだけのものだと。僧侶は禁欲を保つ。イスラム教徒には具象画が禁止されている。日本の高校生はパーマをかけることが禁止されている。粗食、ミニマリズムなどの節制を説く最近の動きは、過度の五感の喜びにハマり過ぎた私たち現代人にリセットを呼びかけるものだ。

宗教家や教育家がなんと言おうと、現代を生きる私たちが幸福感の多くを五感の喜びに依存していることは間違いない。娯楽産業や旅行産業など、世の中の実に多くの仕事は、「お金と引き換えに五感の幸せをもたらす」ことを生業としている。売春婦、アーティスト、写真家、パフューマーからエステシャン。彼らはいかに他人に五感の愉しみをもたらせるかによって価値が決められる。なぜなら、社会で生活する多くの人が、五感の快楽を感じたいと願って暮らす快楽主義者で、もたらされる快楽の程度に応じて金を払いたいと考えているからだ。

イスラム教や日本の高校がタブーを設け、快楽の抑制を説く一つの理由は、禁欲ルールをメンバーに守らせることで、メンバーとそれ以外の区別をはっきりし、社会の団結を固めさせるためかもしれない。

五感の喜びを社会が警戒する、より実質的なもう一つの原因は、快楽には浪費や中毒性の要素があり、それに個人が耽りすぎれば社会の規律が乱れ、生産性が落ちるからかもしれない。

麻薬が多くの国で禁じられているのはそのためで、お酒やタバコも浪費や中毒につながる。食べすぎれば、肥満になる。自分の五感の喜びを人生の目的にして、その実現だけを目指せば、自己中心的な人間が出来上がる。

でも、そこまで中毒性はなく、他人にも迷惑かけず、節度を持って追求できる「五感の幸せ=気持ちいい」はある。例えば、花の匂いを嗅ぐ幸せ。嗅覚には中毒性は低いから、花を嗅ぐ幸せに副作用が殆どない。季節の旬の食べ物を楽しむというような楽しみにも副作用は少ない。

副作用が少ない分、永続性もない。花の匂いを永遠に嗅いでいるわけにはいかない。私たちは、瞬間、花の匂いに幸せを感じる。花の匂いは貯めておくこともできなければ、それを正確に記憶することもできない。それで私たちは、花の匂いに執着せず、花のことを忘れて、また人生の目的やら義務やらに向かっていく。

 

沈丁花の匂いは私に幸せをもたらす。まだ咲いていないツボミですらワクワク感を与える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ2 変化率

戦前、戦中、戦後を生きてきた83歳の義母は、吉祥寺の繁華街やデパ地下など、モノの豊かさが感じられる場所が大好きだ。義母は、モノがなかった時代からどんどん、日本が豊かになっていくプロセスの生き証人だから。湯沸かし器、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ガスオーブン、電子レンジ。パンのなかった時代から、山崎の食パンの時代、そして、フォションのブリオッシュの時代。科学技術が発展して日本が豊かになるとともに、義母の幸せも増してきた。

昭和42年生まれの私は、小学校の頃から公害だの、科学技術の発展の弊害だの、科学技術の発展と経済成長のマイナス面を聞かされて育った。生まれた時から、もう日本はかなり豊かだった。冷蔵庫や掃除機は生まれた時からあった。だから、家電製品に幸福感を感じることは少ない。吉祥寺の街やデパ地下の喧騒と人波は疲れるものでしかない。

そんな私でも、最新のMac Proを買って、クラウドで仕事ができるようになると、やはり少しはハッピーになる。飛行機の値段が下がって気軽に海外旅行できるようになって嬉しい。世代は違うが、やはり義母と同じように科学技術の発展と経済的豊かさ、社会の進歩から幸せを感じることがある。

だが、問題は変化の後にたいていの物事が当たり前になってしまうことだ。電気が灯ること、冷暖房のある家に住むこと、冷蔵庫と洗濯機があること、家にiMacとiPhoneとiPadとMac Proがあること、簡単に海外に行けること。そうしたことは、ひとたびすっかり慣れてしまえば、それ自体によって幸せがもたらされはしない。

モノがあるという状態が当たり前だど、人間関係の軋轢だとか、仕事の辛さだとか、家計の資金繰りだとか、体調不良だとか、それ以外の問題で悩み苦しみ、冷蔵庫を持っている幸せについてはもう考えない。

ひとたび、冷蔵庫が故障して、もう町のどこに行っても冷蔵庫が買えなくなったら。冷蔵庫を持っていたありがたさを泣いて噛みしめるだろうに。

こう考えると、幸せをもたらすのは「変化率」と言えそうだ。

「生活が便利になる」といったポジティブな変化が起きる瞬間、そうしたポジティブな変化は人に喜びをもたらす。だが、すぐポジティブな変化が起きた後の状態に慣れてしまうので、起きてしまった過去のポジティブな変化に持続的に喜びを感じ続けられない。

永遠に成長することを前提にした資本主義や、科学技術の発展は、幸せを感じ続けるためには、常にポジティブな変化を必要とするという人の本性に基づいているのだろう。「便利になる」だけじゃなく、「どんどん便利になる」、「綺麗になる」だけじゃなく、「どんどん綺麗になる」がないと、幸せな状態を維持できないのだ。

年功序列という会社の制度も、人が「ゆっくり昇進し、ゆっくりお給料が増えることで、着実に継続的にポジティブな変化率を感じ続ける」ための仕組みなのかもしれない。

目標を持つ、ということも変化率によって幸せを感じるための方便かもしれない。ダイエットのような目標を持って達成していくプロセスは、目標体重に近づくことで、刻々とポジティブな変化率を感じ続けることでもある。よく、学校で先生が「目標を持て」と生徒に言う。いつも目標を作ってそれを達成しようとすると、人に変化率による幸せを感じ続けられる。あらゆる検定を受けまくる資格ジャンキーのような人は、履歴書に書ける資格の数が増えるという変化を楽しんでいる。

問題は、そういう「ポジティブな変化率」を外界の世界で生み続けることが自然の摂理に合っていないかもしれないことだ。どんどん人口が増え続け、人が豊かになり続ければ、生態系が破壊される。人はいつか老いて死ぬ存在だから、永遠にポジティブに変化し続けるわけにはいかない。先進国の経済成長率は頭打ちになりつつある。

そういう意味で、日本が戦争で一回どん底に落ちて、ずーっと上っていく継続的かつ直線的な物質的変化とシンクロさせて人生を送った義母の世代は歴史上、珍しいほど幸せな世代だったのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せと合目的性

合目的性(purposiveness):事物のあり方が一定の目的にかなっていることをいう。

目的は、幸せ。自分と周りの人の幸せ。

夫はオカネを稼ぐ人。妻は家事と子育てをやる人。夫の稼ぎが悪ければ、妻も働いて、家計を助けたれる。でも、もし夫の稼ぎが支出を満たすのに十分なら、妻は家事と子育てに専念すればいい。

家事と子育てだけじゃ、時間が余るとしたら?妻の社会とのつながりや、自己実現は?

友達や親戚とソーシャルする。映画に行ったり、食事をしたり。ボランティアや、趣味。何か、社会的意義のあることをやる。お小遣い稼ぎに翻訳をする。関心のある本を読む。フルタイムでオフィスでお金のために働いていた時、やりたかったけどできなかったことをやればいい。

チベット問題を支援するとかね。自分がいい人になった気分になることをする。

そして、夫と子供にニコニコ接するのが、妻が楽しそうにしているのが家庭の幸福。

夫は家にお金をもたらすことが、家族の幸福。

夫も妻も、家庭の幸福を最大化する、合目的的な生き方をする。

それが目的に叶っている、というのはわかる。でも、そもそも、目的って何?

幸せ。

家族と幸せ。

でも、幸せって?

50歳になっても、まだ分からない。どうやって生きていいのか。

幸福のために合目的的に生きるって、どんな風に生きることだろう。

幸福に向けて合目的的に生きることはできるんだろうか?

私以外の人は、そんな風に、合目的的に生きているんだろうか?

そんなことを考えながら、最近二冊の本を読みました。

The Book of Joy

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アラフィフから50代へ

年末、翻訳の仕事に追われていたら、目が真っ赤っか。コンタクトレンズが付けられず、もはや、非常事態。眼鏡でパソコンを見ても、スマホを見ても目が霞む状態に。当然、ブログは更新できないし、年賀状を書くのもやっと。

目を休ませなければ、ということで、アイシャドウもマスカラも止め。眼鏡に似合うヘアスタイルに、ということで、ロングヘアは切り落としてボブにした。 続きを読む

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クリシュナムルティの言葉:不安と快楽

クリシュナムルティの言葉。

不安と快楽はコインの裏表です。そのどちらかから抜け出さない限り、もう一つからも解放されません。あなたは人生でずっと快楽を感じ続け、しかも不安から解放されたいと考えています。そのことばかり考えています。でも、もし明日、快楽が否定されたら、あなたは満たされず、怒りと不安と罪悪感を感じ、あらゆる心の惨めさが襲ってくるということをあなたは理解していません。不安と快楽は同時に観る必要があります。

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ダライ・ラマ法王の横浜講演

今年2度目のダライ・ラマ法王の来日。最後の横浜講演に行きました。

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法王の講演はだいたいスタイルが似ています。満場の拍手の中、法王が登場。法王が英語で「思いやり」「内面の平和」「世俗の倫理」などについてトークします。その後、「私に質問はありますか?」という法王の言葉を受けて、質疑応答セッションに移ります。法王はだいたい10〜20の質問に答え、講演終了予定時間をだいたい30分ほどオーバーします。 続きを読む

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【音楽評】俺の彼女 宇多田ヒカル

「相手に自分を合わせすぎて疲れちゃう」ことがよくある。ママ友とのつきあい、親戚との付き合い。。。。「これはここでは言える」「これにでこうやって反応しよう」。そうやって自分を切り刻んで、自分のほんの一部だけをさらけ出して、愛想笑いする。

それがあまりにも長続きすると、社会の同調圧力に合わせて演じるのが息苦しくなってくる。

でも、そうした同調圧力をかけてくる相手が最も身近な人だとしたら。夫や恋人に絶え間なく「本当の自分」を隠しつづけて演じる状況ならストレスはさらに大きくなる。

宇多田ヒカルの「俺の彼女」はそんなシチュエーションを歌った歌だ。

俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい
気の利く子だと仲間内でも評判だし

俺の彼女は趣味や仕事に干渉してこない
帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと

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大統領選挙と前頭葉と辺縁系

「いくら言っていることが正しくても、それを言っている人が嫌だから受け入れられない」、ということ、よくある。ヒラリーはそんな風に嫌われてしまったようで。。。あんなに頑張ったのに。

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外注かDIYか

「とりあえず何でもDIYでやってみたい」と強く思うのは、専門家、分業が極度に進んだ金融業界で長く働いた反動だろうか。

味噌、浴衣、セーター作りから、化粧水、パン、ケーキ、洋服、アクセサリーまで。これまで身の回りのモノ、ハンドメイドができるなら何でもハンドメイドに挑戦してきた。

今年になって始めた古民家改修や庭作りも、基本的にはこのDIY好きが講じたものだ。

img_1174 続きを読む

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【音楽評】宇多田ヒカル fantôme

宇多田ヒカルにとって、母親は美人で天才歌手で音楽の先生。憧れの人であると同時に、自分を苦しめ、傷つけた人でもある。母親の存命中、時期によって「母みたいになりたい」「母みたいにだけはなりたくない」「話し合いたい」「話し合えない」を繰りかえしたのではないか。母が突然あんな風にいなくなってしまった衝撃の後、「好きだけど嫌い」だった最重要人物への自分の強いコンプレックス感情を昇華させる試みがこのアルバムなのだと思う。

どんなことをしていても誰といてもこの身はあなたとともにある

母親の藤圭子。「どんなことをしていても誰といてもこの身はあなたとともにある〜道〜」

昇華の一つの方法は、アルバムのジャケットの彼女のおカッパヘアスタイルや、「道」の「どんなことをしていても誰といてもこの身はあなたとともにある」という詩からも分かるように、母親と自分は別々なのではなく、物理的に母親という存在が消えても、自分の中に彼女が生きていること、自分が彼女自身であることを確認すること。いくら容貌が似ていなくても、さまざまな対立があっても、母と娘はDNAで絶対的にしっかりつながれている。その血の絆が信じられれば死は乗り越えられる。

もう一つの方法は、「(たとえ母がどんな人だったとしても、母に自分が嫌われていたとしても)自分は母を大好きだった」という子供時代の思いをしっかり見つめ、そこから逃げず、ネガティブな感情を乗り越えて、「あなたは素晴らしい」「大好きだった」「ありがとう」というポジティブな感情をしっかりカムアウトしたこと。それはたぶん、彼女が生前の母親に決して言えなかったし、言っても受けとめもらえなかったこと。

分断を絆に変え、苦しみを乗り越えようとする彼女の苦闘が明らかに伝わってくる。母親とは一卵性母子のような仲良し親子ではなかったからこそ、紡ぎ出すべき言葉が生まれた。ドロドロの暗い現実を昇華させる力が素晴らしい。昇華しきれず底辺でさまよっている曲の「忘却」のヒリヒリするような痛さも好き。

母親とは直接関係ない歌(「ともだち」「俺の彼女」など)も心理を掘り下げた深みのある歌詞で、どこかで自分が経験した感情が蘇ってくる感じがする。自分の個人的な感覚や思いを多くの人が共有できる詩とメロディに転換する能力は本当に、本当に、希有のものだ。

天国でこんな娘の歌を聞いた藤圭子は、一体、どんな思いでいるのかな。

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