ひとりごと」カテゴリーアーカイブ

心の財布

お金も心も、不安は余裕がないから生まれる。

もし、手金が200円しかなければ、100円の出費はおおごとだ。なにせ、手金の50%が消えてしまうのだから。

でも、もし手金が1万円なら、100円の出費は気にならない。100円は手金の1%に過ぎないから。

10万円があれば、0.1%。

100万円あれば、たった0.01%。100円の出費は心の痛みや不安を引き起こさない。

心も同じだ。

例えば、出したメールがすぐに返ってこない。

それが恋人に出したメールなら、1日中、疑心暗鬼になる。メールが返ってこないのは、忙しいから?返事の内容を考えているから?それとも、もう、私のことを好きじゃないから?

何か、悪いこと言った?

それとも、もしかして、メッセージが届いていない?もしかして迷惑メールのボックスに入っちゃった?携帯が壊れた?

それが、3日、1週間と続くと、不安はもっと大きくなる。

恋人でなくても、クライアント、取引先、友達、家族。

心に余裕がないと、イライラ、イライラ。

もしかして、私が悪いことした?

私とはもう、縁を切りたいと思ってる?

「メール、届いていますか?」と電話しようか?

でも、電話が不在着信なら?

不信が雪だるまになっていく。

電話したら、「ああ、ごめんなさい。忙しかったから」と言われるかもしれない。

そしたら、ホッとする?それとも、「わざわざ、電話させるなよ!思いやりがないな。もう、縁を切ってやる!」とますます頭にくる?

こんな日常生活のイライラは、そもそも、心の手金が200円しかないから生まれる。

財布に余裕がないから、小さな債権に依存する。そこに人生がかかってると思うほど、視野狭窄に陥ってしまう。些細なことで落ち込む。

もし、お財布に1万円あれば、100円の債権のことなんて気にしない。返ってこなくても、大丈夫。

メールが無視されても、この世の終わりじゃない。嫌われたって、無視されたって、この世の終わりじゃない。

大切なのは、自分の財布には1万円ある、って自分に言い聞かせることだ。

幸い、お金と違って、心はいくらでも大きくすることができる。

人に与え続けられる人。そんな人の心の財布にはいつも1万円が入っている。

考えてみれば、私自身、長い時間、随分、小さな負債を作ってきた。貸し倒したこともある。借りたことを忘れたふりをしたこともある。

そんなとき、心の貧しい私を救ってくれたのは、いつだって、余裕のない私を包み込む、心の大きな人だ。

だから、返してくれない人を責めるのではなく、私が自分のお財布を大きくしよう。

大きくするにはどうすればいいかを考えよう。

財布が大きければ大きいほど、たくさんの貸しを作れる。

そして、貸せる余裕のある人が、最後には一番、多くの資産を作るのだ。

たとえ、何度貸し倒れても。

そのことを忘れないようにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ダイエット

恥ずかしながら、10年で10キロ太ってしまいました。怖くて、怖くて、体重計に乗らないで、現実から逃げ続けてました。ですが、昔の服が入らないことで、太ったのは歴然。

この年になると、「太った…..」と客観的にズバリ言ってくれる人もいなくなり、写真を見て、デブを実感する機会も減り、すっかり自分を甘やかしていました(夫と子供は太めになった私をからかっていましたが)。「チャレンジするなら、ダイエットにチャレンジしろよ!」、の老父の一言で、目が覚めました。

これまで、何度かダイエットしてきました。ですが、目標の「○○キロ減」を達成できた試しがありません。逆に言えば、達成できてもできなくても良かったからかも。

絶対、痩せなければならないほど太ってしまったのは、今回が初めて。

ダイエットの情報をウェブで集めてみると、量の多さに圧倒されます。今回ばかりは読むだけで満足してしまうのではなく、実践しなければなりませんから、実践可能な情報を取り込む必要があります。

結局のところ、全てのダイエットの王道は摂取カロリーが消費カロリーを下回ることが全てといえるでしょう。

食べるモノを減らし、運動する。

問題は、どうやってか、ということ。

いつも、”what”はシンプル。情報が分岐するのは”how”のレベル。

脂肪燃焼のカラクリを少しでも知れば、<一ヶ月で5キロ痩せた>のようなダイエット広告の歌い文句がいかに夢想的かがわかります。

1キロの脂肪を燃やすのに必要なカロリーは7200キロカロリー。これを30で割ると240キロカロリー。一ヶ月で5キロ痩せるためには、毎日、1200キロカロリー以上、消費カロリーが摂取カロリーを上回る必要があります。

せいぜい、一日1800キロカロリーくらいしか消費しない私は、一日、600キロカロリーの生活を一ヶ月続けなければ5キロ減は実現しません。

一日600キロカロリーで。1ヶ月なんて、絶対に無理!

かといって一日の消費カロリーを数百カロリー引き上げるような激しい運動を毎日する生活は送れません。

というわけで、現実的でモデレートな、一ヶ月1キロ減 ×10ヶ月 の目標を掲げました。

実践している内容は次の通り。

1 食べないもの:ジュース、クッキー、カステラ系のケーキ、チョコレート、塊の肉、揚げ物、ジャンクフード
2 食べ過ぎた日は、脂肪吸収抑制剤「オルリファスト」を飲む
3 おやつに食べるもの:ひまわりのタネ、納豆、キムチ、果物
4 一日最低10,000歩。週に2〜3回ジムで4キロ走る

朝はアサイーボウルとコーヒー

オルリファスト以外、高価なダイエット食品を使ったり、食餌療法を取ることはしていません。なにせ長期戦なので、日常生活を普通に送る必要があるので。

9月半ばから本格的に始めたダイエット、目下、1.5キロ減と順調に推移しています。夫がかなり私のダイエットに関心を持っているので、コーチ代わりに使っています。「50歳になると代謝が悪くなって痩せない」「運動をする時間がない」など、言い訳はきりがありません。あらゆる言い訳を撃退し、スリムを取り戻りたいと思います。

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中国旅行(4) 敦煌のソリ運び男

敦煌という町

砂漠のオアシス都市、敦煌はシルクロード河西四郡の最西端の都市だ。

新疆ウィグル自治区はすぐ隣だが、漢民族が人口の99%を占めている。一帯一路構想の戦略的立地にあり、観光で潤っている町は小さいながら、なかなか綺麗なところだ。

スイカ売りの三輪車。1個5元

敦煌のシンボルは飛天

昨年のシルクロード国際文化博覧会の会場となった劇場。度肝を抜くスケール

シルクロードの歴史よりも美術よりも、敦煌で心に残ったのは観光地で働く動物とヒトだった。

ラクダの隊列と観光ガイド

砂の砂漠をラクダの隊列が行く鳴沙山月牙泉。実にインスタ映えするスポット。

ラクダに乗っているのは全員、観光客

直射日光がギラギラと照りつけている。観光客は日焼け止めクリームをベタベタと塗った後で、布を体に巻きつけて完全武装して、にわかベドウィンになる。

生まれて初めて見るラクダの隊列。ラクダは意外と小さい。

「ラクダ、可愛いね!

「ラクダも大変よ。なにせ朝5時から働いてるんだからね」——中国人ガイドのメリーが低い声で言った。

メリーは自分が寝不足で辛いから、そう言ったのだ。

観光地のラクダ同様、ガイドの仕事は過酷だ。私たちの飛行機が遅延したせいで、一昨晩、彼女は夜中の2時まで私たちの到着を空港で待っていた。もし飛行機の到着が朝になったら空港で徹夜をしていただろう。それでも翌日の観光は8時から始まる。

観光は無数の黒子のおかげで成り立っている。ガイドのほかに、ホテルでシーツを替え、部屋を掃除する客室係。レストランの調理人やウェイトレス。運転手、切符切り、マッサージ師など。。。

観光に関わる仕事の多くは合理化が難しく、したがって生産性が低く、低賃金で非正規の労働が多い。そういう黒子たちの苦労のおかげで、快適で楽しい旅行ができる。

砂漠の滑り台

ここを滑る

鳴沙山はその名の通り、「砂が轟々と鳴る」ことで有名なスポットだ。風の侵食により砂に空いた天然の微細な孔のせいで、晴れた日に風が吹くと、砂同士の摩擦により、管弦や兵馬が打ち鳴らす太鼓や銅鑼の音のように聞こえる、という。そして、その音は、砂の上を人が滑ることでも聞こえるらしい。音を聞きたい多くの観光客のために、砂滑りコーナーがあった。

下で待っていて、砂滑りが終わったソリを回収する

快適に砂の上を滑るため、観光客には砂滑り用の木製のスノコのようなソリが貸し出される。砂山の頂上で、一台10元(160円)を払って業者からソリを借りて、ズズーっと滑るのだ。そして、滑りきった先で待っている業者にソリを返す。業者の男たちは返されたソリが7台集まるのを待ち、集まると、それらを背負って再び山のてっぺんまで運んでいく。

ひたすらソリを下から上に運んでは観光客に滑らせる、というシンプルなビジネス。

砂漠の体感温度は50度。朝5時から夜9時半までカンカン照りだ。そんななか、7台のソリを担いだ男たちは腰を曲げて、喘ぎながら、砂を踏みしめて険しい山を登っていく。一回の山登りにかかる時間は30分くらいだろうか。

男たちは汗を滴らせ、顔を歪ませ、「ウー」とか「ウォー」とか、雄叫びをあげながら、登る。登るすぐ、下りる。そしてソリを集めてまた登る。それを延々と1日中、繰り返す。男たちは砂漠の炎天下に1日中、肌を焼かれながら、ソリを運び続ける。

日焼けや熱中症どころの話ではない。そんな仕事は皮膚にも体にも良いはずがない。1台160円のソリを1回7台担いで、約1,000円。一日に何回、往復できるのだろうか。胴元のマージン、ショバ代、ソリの減価償却を入れれば、このソリ運び男たちの1日の稼ぎは2,000〜3,000円くらいだろう。

 

身体を資本にした肉体労働は人間の仕事の基本だ。全身の力を使って休みなく働き、それでもやっと食べいけるかいけないかのカツカツの生活。産業革命が起きるまで、世界の大半の人がそのように生きていた。私の祖先も、そうやって命を繋いできた。

21世紀の今も、世界にそういう人はたくさんいる。シンガポールの道路工夫。デリーの人力車引き。マニラのスカベンジャー(ゴミ漁り)。

AIもシンギュラリティも、全く関係ない世界。。。

観光客はキャーキャーと無邪気に歓声をあげて楽しんでいる。その横でソリ運び男は黙々と運び続ける。

 

マスツーリズムのど真ん中の中世

システム化されたマスツーリズムの底辺に、まるで中世そのままの仕事があった。

鳴沙山のラクダやソリ運びの男たちのリアルな汗と苦しみを見たら、シルクロードの歴史や美術はもう、どうでもよくなってしまった。

人余りの国に行くと、少子化も悪いことばかりではない、と思う。労働力の供給過剰なら、労働者を守る規制など生まれない。どんなに辛い仕事でも、それで現金が得られるならいくらでもやりたい人がいる。

だが、人が余っていれば、人の労働の値段も命の値段も安いままだ。

私の触れ合う人たちは、どのような人たちで、その人たちのもらっているお金はどれくらいで、どんな風に暮らしているのか?

人件費が高い国では、こんな仕事は成り立たない。アメリカでも日本でも、こんな仕事は機械がやる。

ここでも機械が導入されたら、過酷な労働はなくなる!

だが問題は、そうしたら人々が食べていける仕事そのものもなくなってしまう!

そうしたら、男たちはどうやって生きていく?

なら、どんなに辛い仕事でも、やはり、ないよりあった方がいいのか?

イエス。 あった方がいいのだろう。

だが。。。。人身売買や、少女売春や、児童労働は禁止されている。なら、あまりに過酷な低賃金の肉体労働はどうか?なら、動物の酷使はどうか?

結局、ラクダやソリ滑りはしなかった。10元が惜しかったからではなく、ラクダやソリ運び男がかわいそうすぎて、できなかった。

敦煌のソリ運び男に幸あれ。

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【書評】ベーシック・インカム——BIは超リバタリアンな思想だった

 

ベーシックインカム。全ての国民が最低の所得を国から給付される制度についての入門書。

「最低限の健康的で文化的な生活」のために、赤ちゃんを含め、全ての国民一人一人が死ぬまで年84万円をもらえる。4人家族なら336万円。住む家さえあれば一生、働かないでもやっていけないこともない水準。。。

何もしなくてもお金がもらえるなんてパラダイス。でも税金は高くなるだろう。何もしなくてもお金がもらえる。そして働けば重税。そんなことになれば、誰も辛くてイヤな仕事をしなくなるだろう。すると社会が再生産されなくなるだろう。第一、膨大な公的債務と社会保障費に喘ぐ日本の財政にそんな余裕、あるはずない。。。。

そんな批判を筆者は十分見越している。筆者は左派のユートピア思想家ではない。元官僚、金融と財政のプロだ。その人がベーシックインカムは正しく、しかも財源的にも問題ないと言っている。

財源的に問題ないのは、ベーシックインカムはおよそ全ての既存の所得再分配政策を代替することを前提としているからだ。具体的には、公共工事、年金、扶養手当、子ども手当、農業補助金、林業補助金、生活保護、医療保険、失業保険、文化スポーツ補助金など。これらの手当や補助金は不必要な仕事を作り出し、社会の生産性を削いでいる。これらを全部、廃止してしまえば、ベーシックインカムの財源など軽く捻出できる。

そう、ベーシック・インカムは無駄な政府の介入をやめさせると意味でむしろ、右派的、自由主義的な思想なのだ。その最も著名な提唱者は新自由主義の宗祖ミルトンフリードマン。どうりでホリエモンがベーシック・インカムを支持しているわけだ。

人は一人で生まれることも死ぬこともできない。不慮の事故、失業、天災などのリスクに囲まれて生きている。所得を失い、貧困に沈む危険はだれにでもある。本書は社会の相互扶助機能が、家庭から会社、会社から国家に順繰りに移っていった歴史を振り返る。今、企業が社員の社会保障負担に耐えられなくなりつつあり、それが非正規雇用が増えている根本原因だ。なら、(グローバル競争にさらされている)企業を社会保障の役割から完全に解放するためにも、ベーシックインカムで国が国民の面倒を見るべきだという。

こう読むと、ベーシック・インカムの歴史の必然にすら見えてくる。

だが、そんなに簡単にいくだろうか?

もしベーシックインカムを真剣に是と考える政治家が出現し、既存の制度を真剣にベーシックインカムで代替しようとすればどうだろう?

厚生労働省の仕事はほぼなくなり、国土交通省、農水省、年金事務所、福祉事務所の規模と機能は根本的に変わる。医療業界、建設業界、運用業界、保険業界などの利権、権益は失われる。市役所や区役所の仕事も半分以上なくなる。

年金も公共事業も止めてベーシックインカムに一本化。。。それは、国家の仕組みをゼロから変えるもので、実現すれば明治維新クラスの革命だろう。官僚は反対。族議員も反対。既得権益層も反対。

賛成するのは何の既得権もないが投票権もない子供たちだけかもしれない。

そして、そんな子供たちがベーシックインカムを手に入れたとき、果たして本当に、社会に必要な労働が供給され続けるのか。ベーシックインカムの財源が確保され続けるのか。未知数なことはあまりに多い。

ベーシックインカム。「最低限の健康的で文化的な生活」のために、赤ちゃんを含め、全ての国民一人一人が死ぬまで年84万円をもらえる。4人家族なら336万円。住む家さえあれば一生、働かないでもやっていけないこともない水準だ。

働かなくてお金がもらえるなんてパラダイス。でも税金は高くなるだろう。何もしなくてもお金がもらえる。そして働けば重税。そんなことになれば、誰も辛くてイヤな仕事をしなくなるだろう。すると社会が再生産されなくなるだろう。第一、膨大な公的債務と社会保障費に喘ぐ日本の財政にそんな余裕、あるはずない。。。。

そんな批判を筆者は十分見越している。筆者は左派のユートピア思想家ではない。元官僚、金融と財政のプロだ。その人がベーシックインカムは正しく、しかも財源的にも問題ないと言っている。

財源的に問題ないのは、ベーシックインカムはおよそ全ての既存の所得再分配政策を代替することを前提としているからだ。具体的には、公共工事、年金、扶養手当、子ども手当、農業補助金、林業補助金、生活保護、医療保険、失業保険、文化スポーツ補助金など。これらの手当や補助金は不必要な仕事を作り出し、社会の生産性を削いでいる。これらを全部、廃止してしまえば、ベーシックインカムの財源など軽く捻出できる。

そう、ベーシック・インカムは無駄な政府の介入をやめさせると意味でむしろ、右派的、自由主義的な思想なのだ。その最も著名な提唱者は新自由主義の宗祖ミルトンフリードマン。どうりでホリエモンがベーシック・インカムを支持しているわけだ。

人は一人で生まれることも死ぬこともできない。不慮の事故、失業、天災などのリスクに囲まれて生きている。所得を失い、貧困に沈む危険はだれにでもある。本書は社会の相互扶助機能が、家庭から会社、会社から国家に順繰りに移っていった歴史を振り返る。今、企業が社員の社会保障負担に耐えられなくなりつつあり、それが非正規雇用が増えている根本原因だ。なら、(グローバル競争にさらされている)企業を社会保障の役割から完全に解放するためにも、ベーシックインカムで国が国民の面倒を見るべきだという。

こう読むと、ベーシック・インカムの歴史の必然にすら見えてくる。

だが、そんなに簡単にいくだろうか?

もしベーシックインカムを真剣に是と考える政治家が出現し、既存の制度を真剣にベーシックインカムで代替しようとすればどうだろう?

厚生労働省の仕事はほぼなくなり、国土交通省、農水省、年金事務所、福祉事務所の規模と機能は根本的に変わる。医療業界、建設業界、運用業界、保険業界などの利権、権益は失われる。市役所や区役所の仕事も半分以上なくなる。

年金も公共事業も止めてベーシックインカムに一本化。。。それは、国家の仕組みをゼロから変えるもので、実現すれば明治維新クラスの革命だろう。官僚は反対。族議員も反対。既得権益層も反対。

賛成するのは何の既得権もないが投票権もない子供たちだけかもしれない。

そして、そんな子供たちがベーシックインカムを手に入れたとき、果たして本当に、社会に必要な労働が供給され続けるのか。ベーシックインカムの財源が確保され続けるのか。未知数なことはあまりに多い。

どう考えても実現は難しい。実現するとしても、既存の制度の上にハリボテのようにくっつけられた、当初のシンプルな発想からはほど遠いものとなるだろう。

それでも、そんな過激な思想を日銀審議委員が提唱しているということ自体ががすごい。

なお、筆者は文中で、「富は必ずしも正当なものではないが、社会が安定するためには正当なものだと人々に感じられることが必要」と述べている。これは読めば読むほど不思議な表現で、よくわからなかった。「正当ではない富を、正当な富と思わせる」ためには「ウソ」が必要だ、ということで、欧米によるアジアの植民地化を「正当でない」と否定した(近衛首相が)アジアの共産化をもたらした(元凶)として批判している。この部分は舌足らずで他の部分と噛み合っていないで不思議だった。

それでも、そんな過激な思想を日銀審議委員が提唱している、ということ自体ががすごい。

なお、筆者は文中で、「富は必ずしも正当なものではないが、社会が安定するためには正当なものだと人々に感じられることが必要」と述べている。これは読めば読むほど不思議な表現で、よくわからなかった。「正当ではない富を、正当な富と思わせる」ためには「ウソ」が必要だ、ということで、欧米によるアジアの植民地化を「正当でない」と否定した(近衛首相が)アジアの共産化をもたらした(元凶)として批判している。この部分は舌足らずで他の部分と噛み合っておらず、不思議な気がした。

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【書評】ハリネズミの願いーーつながりたい気持ちと自意識過剰

ノンフィクションばかり読んできましたが、実に久しぶりに外国の小説。

昔の石井桃子さんの本みたいな、可愛らしい装丁。ドキドキします。

ハリネズミの願いはひととつながること。誰かと一緒にいて共感する幸せを味わいたい。

それは人の普遍的な願いでしょう。

それでハリネズミは招待状を書きます。紅茶とケーキを用意して誰かが来るのを待ちます。

待ちながら、招待されたひとの気持ちを考えてくよくよするーー迷惑かな。どうせ、みんな忙しいだろう。僕のハリが怖いだろう。僕の家はみすぼらしいし、きっと紅茶とケーキは嫌いだろう。。。

それに、来てくれたとしても、そいつがイヤな奴かもしれない(ハリネズミは自分に自信がないくせに自我が強い。気位が高く、好き嫌いが激しく、他人に厳しい。それが彼の「ハリ」なのです)。

ハリネズミは誰にでも来て欲しいわけではありません。共感して幸せを感じられる人と出会いたいのです。

でも、どうやったらそんな人に会えるのか? 会うためにどうしたらいいのでしょうか? 家をもっと綺麗にしたらいいのかな? 自分のハリを抜いてしまえばいいのかな? 何かに擦り寄ろうとしても、何に擦り寄ったら正解なのか、わからない。

それでハリネズミは不安の中で楽観と悲観、自尊と自己卑下のあいだを揺れ動きます。悲観が極まると、どうせ嫌な思いをするなら独りがいい、とやせ我慢します。

そのくせ、すぐに人恋しくなる。期待し、妄想することを止められません。

ずっと内面のシーソーゲーム、独り言が続きます。

色々などうぶつがハリネズミの家を訪れます。現実と妄想の中で、ハリネズミの家をぶっ壊すなど、変な、ひどい動物が登場します。「良い」動物もいます。ハリネズミをほめ殺すコフキコガネや、美しい歌で深い感動を与えるナイチンゲール。だが、それでもハリネズミは満足できません。一方通行で、心のふれあいがないからです。

最期の最期、ハリネズミはやっと求めていたものを手に入れます。自意識の檻から出られ、不安がなくなり、ぐっすり深く眠れるようになります。

物事は起きるときには起き、出会えるときには出会える。そこに至るには、正解もノウハウもありません。

自意識過剰と寂しさを抱えた人にとっては、どんなリアルな物語よりリアルな物語。私にとって星5つでした。

 

 

 

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なぜフィリピン人は英語を話すのに貧しいのか(1)

英語ができることは仕事で大きなプラスになっている。

フランス語はそうではなかった。

10代、20代の私は英語よりフランス語が得意だった。知識でも人格形成でもフランスには多大な恩義がある。だが、キャリアに直接は役立たなかったという点では、フランス語学習は徒労だったといえる。

働きはじめてからは英語、英語、英語。それがグローバル社会の共通語だったからだ。パリでも東京でも英語。資本市場は日本語でもなく、フランス語でもなく、英語で動いていた。

英語をマスターしたおかげで、グローバル経済の一番回転の効いている部分にアクセスが得られた。今でも英語は私にとって必要不可欠な一部であり、糊口をしのぐ手段だ。若いころの友人を見回しても、若いころの英米圏留学組は良いキャリアを築き、気に効いた仕事をしている人が多い。

そういう現実を肌身で感じる親は、子供に英語教育を施そうとする。日本人だけでなく、韓国人や中国人も。

そんなアジアの英語学習者にとって、コスパ良く英語を学べる国がフィリピン。フィリピン留学、スカイプ英会話。圧倒的に安く、安いわりには質が良い。

だが、そこには大きなパラドクスがある。私たちは経済的利得を求めて英語を学んでいる。なのに、肝心の英語の先生であるフィリピン人が貧しい、というパラドクスだ。英語国フィリピンの人件費が安いからこそ、ギャップを利用したフィリピン留学、スカイプ英会話、コールセンターが成り立つのだ。

フィリピン人は出稼ぎメイドですら気の効いた英語を喋る。シンガポールではメイドから英語をならう日本人駐妻もいる。

。。。。だが、そのメイドの月給は3万円程度。

5月にフィリピンに行った理由の一つは、そのわけを知りたい、というものだった。

マニラ首都圏マカティの街角

 

 

 

 

 

 

 

 

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専業主婦、共働き、独身キャリア

こんな風に世の中が変わりつつある。これからもどんどん変わっていくだろう。

厚生労働省

バブル時代に大学を卒業した私の世代は過渡期的だから、私のまわりは専業主婦、兼業主婦、独身とさまざまだ。兼業主婦にも専業主婦にも、子あり、子なしがいて、独身にも、ずっと独身、バツ1、バツ2がいて、子あり、子なしがいる。そして、働き方も、大学卒業後にずっと同じ会社で働いている人がいて、何度も転職している人、正規雇用の人、非正規雇用の人がいる。専業主婦から兼業主婦になる人がいて、兼業主婦から専業主婦になる人がいる。

そして、お金持ちがいれば、貧乏な人もいる。

幸せな人も、そうでない人もいる。

同じ日本人で、同じ時代に生まれた育った女性でも、どんなカテゴリーに属するか、過去にどんな推移を経てきたかによって、ライフスタイルや頭で考えていることが違ってくる。

男性と比べて選択肢がたくさんあるから、女性にとっていい時代になったと言われる。でも、多様だからこそ難しいこともある。

とくに、人間関係が。

境遇によって得る情報、人生の目標、住む世界が変わるからだ。住む世界が違うと関心事が違うから、自分の思いに共感が得られにくくなる。たとえ親子であっても世代間ではさらに、共感が難しくなる。専業主婦が普通だった母の世代と、まだら模様の私たちの世代と、結婚しようとしまいと働くのが当たり前の娘たちの世代では、もう違う星に住んでいるみたいだ。

境遇の違いが「お互いがお互いをわからない」ということに止まらず、「羨ましい」「かわいそう」「自分より上だ、下だ」という、嫉妬、同情、比較競争のような感情に結びつくと最悪だ。最悪だと思うから、自分も他人にそういう感情を抱かれないように努める。先を見越して、羨ましいと思われないようにしたり、可哀想だと思われないようにしたり、ひたすら自分を隠す。地雷を踏まないように、万事につけ当たり障りなくなる。他人のありのままを理解しようともせず、自分のありのままを理解されようともしない。他人に助け舟も出さなければ、助けを求めもしない。

そして少しずつ、変化を諦め、他人と関わることを止め、偏狭になっていく。

理想はその反対だ。自分の生き方に誇りを持ち、他人の生き方も尊重する。他人との共通項を見つけようと努力するとともに、適度な他人との距離感も取れる。

そんな大人の女性に会うと感動する。対立より融和を選ぶ人。共通点を見つけようと努力する人。自分と他人の違いに純粋な好奇心を持てる人。他人の幸せを自分の幸せと感じられる人。自分の弱さをさらけ出して、しかも人に寄りかからない人。教えを乞うことをいとわず、逆に自分も無償で人に教えてあげられる人。どんな人とも水平に付き合える人。理性的な判断をしつつ情にも厚い人。

そうした女性は、専業主婦にも、兼業主婦にも、独身にも、子ありにも子なしにもいる。

もちろん女性だけでなく、男性にもいる。

そういう人は、必ずしも、一番、世の中で成功している人ではないかもしれない。陽の当たるところにいないかもしれない。でも、多分、社会はそういうまっとうな人によって支えられている。そういう人のおかげで、一人一人に違いがあっても社会はまとまりを失わない。

幸いなことに日本の社会にはそういう人はまだたくさんいる。

サウイフヒトニワタシハナリタイ。

 

 

 

 

 

 

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幸せ6–それに意味はあるのか?

「幸せ」というキーワードで、これまで変化率お金五感の歓びシャーデンフロイデを見てきた。

でも。

実は、古今東西のどんな「幸福論」にも、それらは本当の幸せじゃないと書いてある。どんな宗教も「欲望を満たすだけじゃ人生は虚しい」と説く。

虚しい、とは、意味がない、ということだ。

私たちは虚しくならないために意味を求める。

意味がある行為のためなら苦労だって厭わない。死さえ厭わないこともある。ジハードの戦士や、神風特攻隊員、子供を助けるために命を捧げる親のように。倒錯しているようだが、生きるより、死ぬ方が幸せだから、死ぬのであり、そうした人たちは目的に対して合理性を持っている。

 

人が人生の意味を求めるのは、命が有限で、金はあの世に持っていけないし、五感の快楽は長く続かないからだ。

金や地位はもういい。仕事で実績を残したい、業界の発展に尽くしたい、と職業人が強く思うようになるのも、衣食足りてキャリア後半の時間の有限性に気づいてからだ。前半生を利己的に生きてきた人が後半生、社会貢献活動に勤しむのも、自分の人生に意味づけするためだ。

古今東西、生きた足跡を何ら残さず死んでいく凡夫にとって最も人生の意味が感じられるのは、子供の存在だろう。父祖の遺伝子を次の世代につなぐリレーの役割を果たした、と感じられることは、何と言っても意義深いことだ。そうした幸せは平凡だが、深く、永続的だ。

人は意味を求めて子供を産み、育てる。

子供に先立たれるのが親の最大の苦しみなのは、それによって生きる意味が絶たれてしまうからだ。病気や事故で子供を失った親はよく、「二度とそうした悲しみを他の人が味わわないように」と、残りの人生を癌撲滅や交通事故防止などの社会運動に捧げるケースがある。苦しみのあまり「全ての親がこの苦しみを味わうが良い!」と世を呪いまくってもいいのに、そうならない。愛する子供の死を無駄死にしたくない、生きた意味を残したい、と思うからだ。そうした愛、意味を求める行為に私たちは崇高な人間性を感じる。

単なる物質的な豊かさは物語を生まない。消費者や財・サービス提供者として生きて死ぬだけでは「意味」は生まれない。

だから、経済力の指標であるGDP(国民総生産)で人の幸福を測りきれないのは当然だ。だからといってGDH(国民総幸福度)でもやはり、本当の幸福は測れないと思う。一人一人の人生の「意味」は定量化できない。

 

かくいう私も40歳を過ぎて、いちいちのことに「それって、どういう意味があるんだろう」と考えるようになった。「幸せって何だろう」と考えるようになったのも、意味の模索にほかならない。

残りの人生、なるべく意味のないことはやりたくない。いすみに週末居住して庭いじりするようになったのも、「意味」探しの一環だ。

でも、いすみで植物や動物を見ていると、私の「意味」探しは止まってしまう。動物は言うーー「意味って何のこと?」って。動物や植物は、意味など問わない。

私も同じだった。一番、幸せだった子供時代。意味なんて考えなかった。沈丁花の花の匂いにうっとりする。湖の水面のキラメキに、ワクワクする。ゆでトウモロコシの甘さを味わう。その幸せには、意味も、物語も、過去も未来もなかった。ただ、一瞬の言語化されない感覚があるだけ。

多分、年をとっていくことは、徐々に子供に戻ること。社会であまり役立たなくなり、生産性も落ちてくる。終いには他人の承認も、意味も、そういう知的でややこしいことは全て、考えられなくなる。

でも、そうなったからこそ、訪れる幸福もあるはずだ。子供時代の幸福の記憶が私にそうした確信を与えてくれる。

そう思うと、かなりリラックスして老いを迎えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ5–シャーデンフロイデ、または、私ってまだマシ

シャーデンフロイデ(Schadenfreude):他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情

ダライ・ラマ法王とツツ大主教の’The book of Joy’を読んで初めて知った言葉。ドイツ語。ドイツ語には他の言葉にないイディオムがある。

「人が不幸になると幸せになる。人が幸せになると不幸になる」という幸不幸の社会的トレードオフ。あたかも、世界の幸福の総量は限られているかのように、万人がそれを奪い合う。どう考えても美しくない感情だが、反面、実にありふれてもいる。

「他人の不幸は蜜の味」ーースキャンダル専門週刊誌の売り上げは、それが人々のシャーデンフロイデをどれだけ満たせるかでどれだけ売れるかが決まるような気がする。「へー、この人、成功してたけど、今は結構、大変なんだね〜」。それで自分の幸福度が変わるわけではない。でも、上だったものを下に落とすことで、少なくとも「スッキリ」する。溜飲が下がる。うさが晴れる。

そういう感情は後ろ暗いし、非道徳的だから、日常生活では抑える。「私、あなたが不幸になるといいと思う。あなたの不幸が楽しい」なんて、誰かに絶対言わない。でも、言わなくても、そういう感情はある。

昔、白血病で死んだ女優夏目雅子が病床で、「自分がいないあいだの他の女優の芝居は全部、こけるといい!」と叫んでいたという。これもシャーデンフロイデだろう。当時、彼女はまだ25歳で、上り坂の人気女優だった。仕事を降板し、どんどん弱っていく中で、とても他人の幸せを願う境地でいるのは無理だったろう。そう言った彼女を私たちが非難する気になれないのは、彼女が若くして死んでしまったからだ。

ユニセフのCMや学校の先生。「世の中には今日のご飯も食べられない人がいます。あなたたちは幸せです。そのことを感謝しましょう」という。これも微妙だが、少しシャーデンフロイデが入っている気がする。自分より貧しい人がいると認識することで、自分の幸福を再確認するのっていやらしくないか。

テレビや新聞の悲惨な事件のニュース報道も微妙だ。日本の新聞やテレビニュースは頻繁に、子供の交通事故、虐待死、老人の独居死など、結構残酷なニュースを流す。大半の視聴者は「かわいそう!ひどい世の中ね。そんなことがあるなんて!」とシュールな事件に憤り、社会の仕組みや政治家を非難する。でも、心のもう半分では「それが自分と自分の家族に起きないで良かった。なんとか、今日一日、無事だった。自分はまだマシ」と、見ず知らずの他人との比較で自分の幸せを確認する。事件事故報道の隠れた意義は、凡夫のささやかなシャーデンフロイデを満たすことにある。

穢多非人、アウトカースト(不可触民)のような非人道的な差別が組み込まれた社会の階層制度が作られたのは、人間のシャーデンフロイデ的幸福観を逆手にとった為政者の知恵かもしれない。「自分はまだマシ」「下には下がいる」と思えることで人々のシャーデンフロイデが満たされ、不満はガス抜きされ、社会が安定化する。

シャーデンフロイデがポジなら嫉妬、羨望、自己卑下はネガ。「他人の幸福は自分の不幸」はさらに身近な感情だ。

みんな、志望校に合格したのに、僕だけ落ちちゃった。「おめでとう」と友達に言いたい。でも顔が引きつらないでは言えない。

親友の結婚式。私は失恋したばかり。「おめでとーっ」「綺麗!」「いーなーっ」って披露宴を盛り上げる。家に帰って「なんで私はダメなの」って呟く。

自分が不幸なとき、他人の成功や幸せは不幸を増幅する。

誰もがそういうネガティブな感情に覚えがあるから、大人になると人は個人的幸せや幸運を努めてひけらかさないようにする。本当の金持ちは、金持ちであることを隠す。逆に、個人的不幸は誇張する。ママ友同士は、自分の子供の問題点や苦労ばかり言い合って謙遜合戦する。それが空気を読む、つまり、社会性を身につける、ということだ。

本当は、「いつだって他人の幸せをわが事のように喜ぶクセをつける」というのが、究極の勝利戦略なのだろう。先の本、Book of Joyは羨望や嫉妬への処方箋として、それを推奨している。仏教ではそれを「ムディター=随喜」というそうだ。要するに、シャーデンフロイデの反対の感情。

問題は、それがすごく難しいこと。

凡人は天使でも悪魔でもないからシャーデンフロイデを感じる時もあれば、ムディターを感じる時もある。シャーデンフロイデを強く感じるのは、自分が椅子取りゲーム的状況に置かれていると感じるときだ。オカネ、愛情、能力、そういう希少物を誰かと競争し、自分が負けそうなとき、シーソーゲームに講じているとき、私たちはシャーデンフロイデを感じる。逆に、他人と競う必要のないとき、勝ち負けがないところでは、他人の幸せに素直に共感できる。病気の友達がいて、病気が治れば、良かったね、と心から言える。お年寄りに席を譲れる。

世の中が競争的になり、個人同士がガチンコで比較にさらされ続ける世の中では、ますます社会全体でムディターが減ってシャーデンフロイデが増えている気がする。社会が豊かになってもなぜか幸福感が増えず、学校ではいじめが蔓延し、自殺者が減らず、うつ病者が増えている。それは、幸せを相対的、シャーデンフロイデ的にしか感じられなくなっている私たちの感じ方、そしてそういう感じ方を作り出す社会の仕組みや教育に元凶がある気がする。

社会の仕組みや教育を変えられず、ドロップアウトもできないとしたら、どうやって個人の心からシャーデンフロイデを減らせるだろう。

私が試している方法は、競争的な社会の仕組みを単なるゲームと考えて、絶えず、ゲームオーバーすることだ。試合中は全力で戦うが、試合が終われば、競争心をリセットし、勝者が敗者を労わり、敗者も勝者を讃え、肩を叩き合う、一流のエレガントなアスリートになった気分で。

あとはやはり、モヤモヤが溜まったら、たまに週刊誌を読んでガス抜きすることかな。

所詮、私たちは聖人君子ではないのだから。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ4ーーお金

私たちが、お金を大切に思い、お金と幸せを結びつけて考えるのは、市場社会に暮らしているから。

私たちは、お金があれば色々なものが買えて、能力や運によってお金を稼げる可能性が変化する世界に住んでいる。おそらく私の江戸時代のご先祖様は、お金があって幸せ、とは思わなかった。当時はお金で買えるものが少なかったからし、個人の努力によってお金を得ることも難しかった。

今の世の中も、もちろん愛や友達をお金では買えない。それはわかりきっている。でも、それ以外にはかなりのものがお金で買える。母の世代より、私の世代の方がお金で買えるものはどんどん増えている。

ログハウスと北欧家具で、理想の暮らしを買う。

ヨガと美容整形で、素敵な容姿を買う。

家事をアウトソースし、便利グッズを入手して時間を買う。

習い事をし、映画に行って、本を買って、教養を買う。

エアコンで、快適な温度の中で生活することを買う。

保険と貯蓄で安心を買う。

マインドフルネス瞑想で心の安定を買う。

全部、可能。

それらを買うことで、自由と快適さが得られる。そのことを思うと、全ての人が物質的な豊かさを目指すのはあまりに自然なことに思える。

そんなお金を、合法的に得るためのメインの手段は「働くこと」と「理財すること」だ(今日の世の中、略奪はダメ)。

それで、より良い仕事を目指す。より良い雇用機会を得られる教育を子供に与えるために一生懸命働く。自分のお金で買いたいモノを買う。みんな、そうやって生きている。それができないと不幸になる。

企業業績、貿易摩擦、雇用、失業、格差、年金、教育、株式市場。世の中のほとんどの情報が経済に関係している。社会がお金を中心に回っていて、人と人はお金を通じて結び付いている。社会のあらゆることにお金が付いて回る。

不思議なのは、なのに、なぜかお金について話すことがタブー視されるのかということ。

なぜかお金は悪者扱いされやすい。私たちは、「幸せってお金じゃない」という言葉が好きだ。なぜだろう。

お金はギスギスするから。「それって、結局、お金だよね!」というと、ギスギスするが、「それって、お金じゃない」というと、なぜかギスギスしない。

手段であるお金が目的化すると、一体感、親切、絆、忠誠、公平、道義心など、長く共同体で大切にされてきたものがズタズタになるから、かな。

共同体で暮らした年月の長さに比べたら、私たちがお金万能の市場経済に晒されて生き始めたのはごく最近に過ぎない。

お金による商品や労働の交換は、ヒトを比較可能な定量的存在にする。定量化によって私たちは分業や協力ができるようになった。でも、お金は、同時に希少な資源を巡る競争を生む。お金を基準に、勝ちたい、負けたくないと望む心は、不安、恐怖、羨望、嫉妬という、幸せと正反対の感情につながる。誰かが勝てば、誰かが負ける。

多分、市場化されていない世界でも(家柄、容姿、権力、名声などに基づく)比較と競争、不安、恐怖、羨望、嫉妬はあった。でも、家柄、容姿、権力、名声よりもお金はさらに普遍的で比較がしやすい。ネットやビッグデータや統計によって、お金をめぐる透明性はさらに増している。そして、お金と能力が同一視されるようになると、ますます個人の精神衛生は辛くなってくる。

売ることに必死な企業は客をカモろうとする。客の方も、売り手を安く商品やサービスを提供してくれるモノとしか見なさなくなる。「お金がなくなるかも!」という不安によって、過剰な貯蓄や過労死といった倒錯現象が起きる。

お金が生む個人主義によって他人と一体感が持てなくなる。他人を「カモれるか?」「ロボットとして酷使できるか?」「自分より上か」「自分より下か」としか考えず、「カモられることができる」「ロボットとして酷使されることができる」ことだけが生まれた目的みたいな人間が出来上がる。

そんなヒトだらけになると、子供の数が減る。老人が孤独になる。生態系が破壊される。

そんな風に、お金は本質的に矛盾している。つながりを生むと共に、つながりを壊す。共同体にとってもお金は大切だが、お金を大切にしすぎると共同体が壊れる。お金は個人的な問題だが、個人的な問題としてだけ捉えられるものでもない。

 

矛盾しているから難しい。そう、世の中の大半のことは矛盾しているから難しいのだ。お金だけじゃない。そもそも人間の感じる幸せそのものが矛盾している。

お金についてはこれだけ。まだまだ幸せについて書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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