投稿者「下山明子」のアーカイブ

幸せ2 変化率

戦前、戦中、戦後を生きてきた83歳の義母は、吉祥寺の繁華街やデパ地下など、モノの豊かさが感じられる場所が大好きだ。義母は、モノがなかった時代からどんどん、日本が豊かになっていくプロセスの生き証人だから。湯沸かし器、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ガスオーブン、電子レンジ。パンのなかった時代から、山崎の食パンの時代、そして、フォションのブリオッシュの時代。科学技術が発展して日本が豊かになるとともに、義母の幸せも増してきた。

昭和42年生まれの私は、小学校の頃から公害だの、科学技術の発展の弊害だの、科学技術の発展と経済成長のマイナス面を聞かされて育った。生まれた時から、もう日本はかなり豊かだった。冷蔵庫や掃除機は生まれた時からあった。だから、家電製品に幸福感を感じることは少ない。吉祥寺の街やデパ地下の喧騒と人波は疲れるものでしかない。

そんな私でも、最新のMac Proを買って、クラウドで仕事ができるようになると、やはり少しはハッピーになる。飛行機の値段が下がって気軽に海外旅行できるようになって嬉しい。世代は違うが、やはり義母と同じように科学技術の発展と経済的豊かさ、社会の進歩から幸せを感じることがある。

だが、問題は変化の後にたいていの物事が当たり前になってしまうことだ。電気が灯ること、冷暖房のある家に住むこと、冷蔵庫と洗濯機があること、家にiMacとiPhoneとiPadとMac Proがあること、簡単に海外に行けること。そうしたことは、ひとたびすっかり慣れてしまえば、それ自体によって幸せがもたらされはしない。

モノがあるという状態が当たり前だど、人間関係の軋轢だとか、仕事の辛さだとか、家計の資金繰りだとか、体調不良だとか、それ以外の問題で悩み苦しみ、冷蔵庫を持っている幸せについてはもう考えない。

ひとたび、冷蔵庫が故障して、もう町のどこに行っても冷蔵庫が買えなくなったら。冷蔵庫を持っていたありがたさを泣いて噛みしめるだろうに。

こう考えると、幸せをもたらすのは「変化率」と言えそうだ。

「生活が便利になる」といったポジティブな変化が起きる瞬間、そうしたポジティブな変化は人に喜びをもたらす。だが、すぐポジティブな変化が起きた後の状態に慣れてしまうので、起きてしまった過去のポジティブな変化に持続的に喜びを感じ続けられない。

永遠に成長することを前提にした資本主義や、科学技術の発展は、幸せを感じ続けるためには、常にポジティブな変化を必要とするという人の本性に基づいているのだろう。「便利になる」だけじゃなく、「どんどん便利になる」、「綺麗になる」だけじゃなく、「どんどん綺麗になる」がないと、幸せな状態を維持できないのだ。

年功序列という会社の制度も、人が「ゆっくり昇進し、ゆっくりお給料が増えることで、着実に継続的にポジティブな変化率を感じ続ける」ための仕組みなのかもしれない。

目標を持つ、ということも変化率によって幸せを感じるための方便かもしれない。ダイエットのような目標を持って達成していくプロセスは、目標体重に近づくことで、刻々とポジティブな変化率を感じ続けることでもある。よく、学校で先生が「目標を持て」と生徒に言う。いつも目標を作ってそれを達成しようとすると、人に変化率による幸せを感じ続けられる。あらゆる検定を受けまくる資格ジャンキーのような人は、履歴書に書ける資格の数が増えるという変化を楽しんでいる。

問題は、そういう「ポジティブな変化率」を外界の世界で生み続けることが自然の摂理に合っていないかもしれないことだ。どんどん人口が増え続け、人が豊かになり続ければ、生態系が破壊される。人はいつか老いて死ぬ存在だから、永遠にポジティブに変化し続けるわけにはいかない。先進国の経済成長率は頭打ちになりつつある。

そういう意味で、日本が戦争で一回どん底に落ちて、ずーっと上っていく継続的かつ直線的な物質的変化とシンクロさせて人生を送った義母の世代は歴史上、珍しいほど幸せな世代だったのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ

ホモ・サピエンス全史によれば、狩猟・採集社会から農耕社会、農耕社会から産業社会に移っても、それぞれの時代を生きる人間の幸福度は必ずしも高まらなかったという。

これは、個人の人生にも当てはまるのかもしれない。幸せは降って来るもので、追求するものではない。新しい技術や生活様式によって、社会全体が「便利」にはなる。「豊か」にはなる。なら便利さや豊かさと幸せの関係はどうか。

たとえば、冷蔵庫は私の生活の仕方を変えた。でも、私は冷蔵庫によって幸せにはならない。不幸にもならない。パソコンしかり。facebookしかり。

昔の主婦は手で洗濯物を洗った。冷蔵庫がないから食べ物の買い溜めはできなかった。家事が省力化されていない社会では、女性が社会で働くのは難しかった。今は、家事労働はすごく省力化されているから、主婦の仕事で女性の時間が余るようになった。だから、女性も外でお金を稼ぐために働けるようになった。

そうした変化がわずか一世代の間に起きた。

すると、昔はいなかった、お金を稼げる主婦と、お金を稼げない主婦の格差が生まれる。能力による賃金格差が生まれる。お金を稼げるようになれば、男性に養ってもらう必要もなくなり、結婚しない女性も現れるし、子供を産まない女性も現れる。カネは生き方の自由を生み、生き方の選択肢が広がる。

科学技術の発達や、社会の富の蓄積によって、生き方の選択肢の自由がある社会になる。

でも、選択肢は個人の幸福をもたらしたかな?選択肢のある社会で生きる女性は選択肢のない社会の女性より幸せかな?

そうじゃないとは言えない。相対的にはそうかもしれない。でも絶対そうかどうかは分からない。

でも、たとえば、私は母より、幸せなのか?女性は選択肢が増えると、どんどん幸せになるのか?

私は「母より私は幸せか?」と言った。そうやって自分と母を比べた。

私たちは、なんでも比較する。「私はxxより幸せか?」「私は昔より幸せになっているか?」。そういう比較の精神そのものが、社会の進歩と情報の流通によってもたらされた。

江戸時代を生きた私のひいひいひいおばあちゃんは、決して、私のように人を比較しまくったりはしなかっただろう。

そもそも、したくても情報がないし。

今は情報が多い。お金、年齢、体重。それなら、どちらが多いか、少ないか、すぐに言える。物事を客観的、定量的に捉えることに慣れた私たちは、幸せを幸福度のような定量指標で捉えようとする。そして、そうした指標の数値を最大化することで、「より幸せな社会」を作ろうとする。

でも、本質的に、幸せは比較できない。なぜなら、主観的だから。母が心で感じていることを私はわらかない。話合ってわかるものでもないし、第三者が判断できることでもない。

幸せは、曖昧な、捉えどころのないものなのに、すべての人は求めながら生きている。幸せになりたいと思って生きている。お金を稼ぎたい、体重を減らしたい。結婚したい。子供を産みたい。皆、幸せになるため目標に向かっている。保険の契約をライバルに先んじて取る。世界の戦争をなくそうとする。死にそうな人を助ける。人を笑わせて喜ばせる。古民家を修復する。

人は幸せになろうとして何かをしている。幻想の幸せだろうが真実の幸せだろうが、誰もが幸せを追求している。私も。

一番の問題は、幸せは「なる」ものではなく、今ここにある感覚だということ。感覚は、降ってくるもので、求めたり、努力したりしては得られないということ。

だとしたら、なぜ、社会は幸福と無関係に進歩したり、変遷したりするのだろう。

そこには私たちの思考様式の中に、何か根本的誤解があるのかもしれない。

ハラリさんの本を読んで、こんな小学生が考えるような幸福論についてもう一度、考えたくなった。幸せという明確な価値判断を軸にした、とても壮大でオリジナルな歴史の本。真の独創性は、新しいものを創り出すことではなく、思っていることをそのまま口にすることなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せと合目的性

合目的性(purposiveness):事物のあり方が一定の目的にかなっていることをいう。

目的は、幸せ。自分と周りの人の幸せ。

夫はオカネを稼ぐ人。妻は家事と子育てをやる人。夫の稼ぎが悪ければ、妻も働いて、家計を助けたれる。でも、もし夫の稼ぎが支出を満たすのに十分なら、妻は家事と子育てに専念すればいい。

家事と子育てだけじゃ、時間が余るとしたら?妻の社会とのつながりや、自己実現は?

友達や親戚とソーシャルする。映画に行ったり、食事をしたり。ボランティアや、趣味。何か、社会的意義のあることをやる。お小遣い稼ぎに翻訳をする。関心のある本を読む。フルタイムでオフィスでお金のために働いていた時、やりたかったけどできなかったことをやればいい。

チベット問題を支援するとかね。自分がいい人になった気分になることをする。

そして、夫と子供にニコニコ接するのが、妻が楽しそうにしているのが家庭の幸福。

夫は家にお金をもたらすことが、家族の幸福。

夫も妻も、家庭の幸福を最大化する、合目的的な生き方をする。

それが目的に叶っている、というのはわかる。でも、そもそも、目的って何?

幸せ。

家族と幸せ。

でも、幸せって?

50歳になっても、まだ分からない。どうやって生きていいのか。

幸福のために合目的的に生きるって、どんな風に生きることだろう。

幸福に向けて合目的的に生きることはできるんだろうか?

私以外の人は、そんな風に、合目的的に生きているんだろうか?

そんなことを考えながら、最近二冊の本を読みました。

The Book of Joy

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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皇太子妃雅子様のこと

あと2年で天皇が退位して元号が変わるとのこと。平成は30年ぴったりで終わり、新しい年号になる。

2年後に皇太子様58才、雅子様54才。

私より2年上の雅子様、54歳での皇后即位は決して若過ぎない。とはいえ、昭和天皇と皇后を見て育った私にとって、同年代の雅子様が皇后陛下になられると思うと自分の前で過ぎた時の流れの長さに少し驚いてしまう。 続きを読む

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アラフィフから50代へ

年末、翻訳の仕事に追われていたら、目が真っ赤っか。コンタクトレンズが付けられず、もはや、非常事態。眼鏡でパソコンを見ても、スマホを見ても目が霞む状態に。当然、ブログは更新できないし、年賀状を書くのもやっと。

目を休ませなければ、ということで、アイシャドウもマスカラも止め。眼鏡に似合うヘアスタイルに、ということで、ロングヘアは切り落としてボブにした。 続きを読む

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【書評】意識のスペクトル ケン・ウィルバー

意識、スピリチュアル、宗教系の本には相性が合う本と合わない本がある。私は感性だけで書かれたポエムお花畑系や人生論、道徳を説いたような本は苦手。かといって、学術的な仏教論理書やガチの古典は歯が立たない。

ケン・ウィルバーの本とはすごぶる相性がいい。。。。この人の書いた本は全部読みたいと思う。ついていきたい、と思う。僭越ながら、理屈っぽさ、間口の広さ、問題意識や方向性、文体、すべてが自分の性分に合っている。

ケン・ウィルバーは、さまざまな賢人や哲学者などの言葉の文脈を説明する水先案内人。いわば、「おまとめキュレーター(と言ってしまうのは失礼かもだが)」なのだが、その整理力、構成力、キュレーションのセンスは尋常ではない。自分で作った構築物の枠組みに端正に賢者の言葉を組み込んでいき、それを通じて自分の主張を積み上げていく。日本では分野は違うが橘玲が似た手法を取っているように思う。

素晴らしいのは、欧米のアカデミックな知的伝統(主に心理学)とインド、中国、日本の東洋的な伝統(仏教、ヴェーダンタ哲学、老荘思想)を消化して、すべてを同じ土俵で語っていること。「アカデミック、西洋哲学、科学」と「オルタナティブ、宗教、スピリチュアル」という二つの違うジャンルだと思われて分断されていたものを(「あれ」と「これ」に分けずに)見事に一つの流れに統合するのだ。

クリシュナムルティ、ユング、グルジェフ、老子だけでなく、プラトン、スピノザ、アウグスティヌス、ヴィトゲンシュタイン。そして、まだ私の読んだことのない、多くの東西の賢者たちの言葉。そこには西洋も東洋も、偽りの対立もなく、まるで見事に調律された重層的なパイプオルガンの音色のようだ。多くのことについて、違う人が同じことを違う言葉で言っていただけなんだ、○○はそういう意味だったんだ。。。。と思う。

本書で徹底して語られるのは、人間の意識が偽りの(幾重もの)二元論に陥っている有様、そしてそれが統合されることの意味である。言葉で語るのがかくも難しいことを、かくも言葉を尽くして、親切に、丁寧に。。。。

もちろん、読むだけで自分の中の二元論が解決したり、苦しみがなくなったりするわけではない。でも、少なくとも心の「メカニズム」の解説として私にとってこれ以上の良書は今のところない。

これで、「万物の歴史」、「グレイス・アンド・グリット」に次ぐ3冊目のケン・ウィルバー。来年は彼の最大の著書Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolutionを読破したい!

 

 

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古民家夷水軒ブログのこと

とつぜんですが、これから、いすみの古民家に関する内容は、夫と立ち上げたブログ「古民家夷水軒」に書くことにしました。

 

もし、よかったらご覧になってください。

http://isuiken.com/

 

ちなみに「夷水軒」というのは「夷隅(いすみ)川のほとりの家」という意味で、私たち夫婦が今年4月に千葉県いすみ市に買った古民家の名前です。

 

私たちが自分で考え出した名前ではなく、もともと買った家の壁に書いてあった名前です。

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元の所有者の久貝家のご当主が洒落っ気を持って自分の家にそう名付けたのだと思います。素敵な名前ですし、たしかに私たちの家はいすみ川のほとりにあります。それで、僭越ながら、自分たちの家を私たちもそう呼ぶことにしました。

 

これから古民家の改修やいすみの生活については、夫と交互に夷水軒のブログに書いていく予定です。

 

もちろん、このブログも続けます。引き続きよろしくお願いします。

下山明子拝

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クリシュナムルティの言葉:不安と快楽

クリシュナムルティの言葉。

不安と快楽はコインの裏表です。そのどちらかから抜け出さない限り、もう一つからも解放されません。あなたは人生でずっと快楽を感じ続け、しかも不安から解放されたいと考えています。そのことばかり考えています。でも、もし明日、快楽が否定されたら、あなたは満たされず、怒りと不安と罪悪感を感じ、あらゆる心の惨めさが襲ってくるということをあなたは理解していません。不安と快楽は同時に観る必要があります。

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【書評】グレース・アンド・グリット ケン・ウィルバー

ケン・ウィルバーの「万物の歴史」を読んだ後、こんな書き物を書く人は一体、どんな人物なんだろう?奥さんはどんな人だったんだろう? との一種のミーハー心で手に取った本。

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈下〉

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ダライ・ラマ法王の横浜講演

今年2度目のダライ・ラマ法王の来日。最後の横浜講演に行きました。

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法王の講演はだいたいスタイルが似ています。満場の拍手の中、法王が登場。法王が英語で「思いやり」「内面の平和」「世俗の倫理」などについてトークします。その後、「私に質問はありますか?」という法王の言葉を受けて、質疑応答セッションに移ります。法王はだいたい10〜20の質問に答え、講演終了予定時間をだいたい30分ほどオーバーします。 続きを読む

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