投稿者「下山明子」のアーカイブ

隠キャと陽キャ(集広舎コラム)

すっかり夏景色ですね。毎年、7月15日を過ぎると真夏本番!という感じでしたが、今年は早い。毎年、冬と夏が少しずつ長くなり、春と秋が短くなっているような気がします。

集広舎さんの3回目のコラムが載りましたので、転載します。

下山明子

陰キャと陽キャ

 

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集広舎さんのサイトにコラムが載りました。

こんにちは。梅雨らしい陽気が続いていますね。

ダライ・ラマ法王スピーチ集」でお世話になった出版社、集広舎さんのサイトにコラムを載せていただきました。良かったらご覧になってください。

下山明子

体育会系のチベット人

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つながりたい思いと自意識過剰

ご無沙汰しています。下山明子です。

昨年7月にこんな書評をamazonに投稿しました。読み返すと、われながら、自分の気持ちをそのまま切り取った感想と思いました。わたしは自分が言いたいことを表現したいのに、臆病だから、書評でしか自分の本当の気持ちが表せないのかもしれません。

できれば、書評じゃなく、翻訳でもなく、自分の足で立って、自分の表現をしたいです。そうしたなかで、これまで書いたamazon書評は、自分が何についてどう考えて、感じていたかを確認する貴重な資料です。たくさん読んだ本のなかで心が引っかかった本についてだけ書いているから。

ちなみに、この本はオランダの作家さんの「童話」で、2016年に日本で翻訳され、ロングセラーになっている本です。結末には勇気がもらえます。

ハリネズミの願いはひととつながること。誰かと一緒にいて共感する幸せを味わいたい。

それは人の普遍的な願いだろう。

それでハリネズミは招待状を書く。紅茶とケーキを用意して誰かが来るのを待つ。

待ちながら、招待されたひとの気持ちを考えてくよくよするーー迷惑かな。どうせ、みんな忙しいだろう。僕のハリが怖いだろう。僕の家はみすぼらしいし、きっと紅茶とケーキは嫌いだろう。。。

それに、来てくれたとしても、そいつがイヤな奴かもしれない(ハリネズミは自分に自信がないくせに自我が強い。気位が高く、好き嫌いが激しく、他人に厳しい。それが彼の「ハリ」なのだ)。

ハリネズミは誰にでも来て欲しいわけじゃない。共感して幸せを感じられる人と出会いたい。

でも、どうやったらそんな人に会えるのか、会うためにどうしたらいいのかがわからない。家をもっと綺麗にしたらいいのか。自分のハリを抜いてしまえばいいのか。何かに擦り寄ろうとしても、何に擦り寄ったら正解なのか、わからない。

それでハリネズミは不安の中で楽観と悲観、自尊と自己卑下のあいだを揺れ動く。悲観が極まると、どうせ嫌な思いをするなら独りがいい、とやせ我慢する。

そのくせ、すぐに人恋しくなる。期待し、妄想することを止められない。

ずっと内面のシーソーゲーム、独り言が続く。

ハリネズミは色々などうぶつと交渉を持つ。現実と妄想の中で、ハリネズミの家をぶっ壊すなど、変な、ひどい動物が登場する。だが「良い」動物もいる。ハリネズミをほめ殺すコフキコガネや、美しい歌で深い感動を与えるナイチンゲール。だが、それでもハリネズミは満足できない。求めている自己承認が与えられないからだ。

最期の最期、ハリネズミはやっと求めていたものを手に入られる。自意識の檻から出られ、不安がなくなり、ぐっすり深く眠れる。

物事は起きるときには起き、出会えるときには出会える。そこに至るには、正解もノウハウもない。

自意識過剰と寂しさを抱えた人にとっては、どんなリアルな物語よりリアルな物語。私にとって星5つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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古民家のキッチン(続き):標準仕様の呪縛

古民家のキッチン施工中に、新宿の国産住設メーカーの大型ショールームを見に行った。

ショールームのキッチンはさすがにどれも、見事にお洒落でゴージャス。

壁に貼ってある「全部でおいくら?」を見て仰天。一式、300万円とか、500万円とか、700万円とか。。。。

ネットで見るキッチン設備の価格とは、ケタが1つちがう。

もちろん、その値段には、床か壁の張替えや、配管やガス工事、設置にかかる職人の手間賃は含まれていない。

「すごい。こんな値段のキッチン、一体、誰が買うんだろうね。。。。」

「実際にこんな仕様にする人は少ないんだよ。家も狭いしね。ショールームは夢を見せるだけの場所だよ。実際には、ほとんどの人は値段を知って標準仕様のキッチンを入れるんだ。このキッチン、見てごらん。標準仕様にてんこ盛りにオプションがついてる。標準仕様はめちゃくちゃ安い。30万円もあればOKだ。施工だって1日で済んじゃう。高いのはオプション。日本は特別仕様にすると、なんでも馬鹿丁寧になり、もったいぶるようになって、法外に高くなる。そういう業界の仕組みなんだ」

「でも。。。。標準仕様のキッチンて、あまりにシャビーよね」

「わざとシャビーにしてるんだよ。小金がある人がオプションを選ぶようにね。ちょっとデザインに凝りたい奥様は、アイランドキッチンやら、人工大理石のトップやら、ホーローのシンクやら、アンティーク風の蛇口やらにする。君みたいにね。すると、たちまち3倍、4倍の値段になる。利益率もうなぎ上り。お金は取れるところから取る。金持ちはぼったくる。こと家に関しては、日本の業界はその精神が徹底してる」

思い出せば、IKEAのキッチンは、一つ一つの部材に定価がついていた。キッチンの値段はそれら部材の合計価格+施工費だった。そこには標準仕様も、特約店のための割引もない。どんなにささやかなキッチンでも、買手は自分で一つ一つ、部材を選んで自分のキッチンを作っていく。キッチンを大型にしたり、特別な設備を入れれば当然、合計価格は高くなるが、あくまで価格の上がり方は直線的だ。

それに対し、国産キッチンの価格体系はきわめて累進的だ。標準仕様は安い。だが買い手はほぼ何も選べない。そして、ひとたび標準を離れて買い手が何かを選び出すと、価格は天井知らずとなる。

「特別仕様のハードルが高すぎるよね。貧乏人はデザインに凝るなってことかな。。。。」

そのせいで、ショールームのキッチンの多様さを尻目に、現実の日本の家庭のキッチンはとても画一的だ。消費者が画一的なのではない。それは価格体系のせいだ。実際のところ、自分好みのオリジナルなキッチンを実現できるのは超累進的価格への感応性の低い(=値段にこだわらない)金持ちだけとなる。

キッチンだけでない。窓もそうだ。汎用アルミサッシと木製建具の価格差はあまりに大きい。その差は原価や手間賃のちがいをはるかに超えている。裏には「わざわざ木製建具を入れたいほどデザインに凝る人は、普通の人より金持ちなはず。金持ちは高い請求書も喜んで払うはず」という暗黙の業者ロジックがある。

ビニールクロスの壁しかり。バスルームのシャワーヘッドしかり。

施主に選択肢はある。問題は、非標準的な選択肢のコストがあまりに高すぎることだ。

つまり、選択は金持ちにしか与えられない。価格とデザインの決定権が極度に供給側に偏っている。

それは、日本以外で生活したことがなければわかりにくいことだ。

もしかしたら、それは家だけではなく、ライフスタイル全般に言えるのかもしれれない。。。。とふと思った。

日本では法律により、あらゆる人に「生き方の選択肢」が保証されている。問題は、「万人のための標準仕様」のコストがあまりに安く、「特別仕様」を選ぶと、コストが跳ね上がるため、人々に標準仕様の生き方をさせようとする社会の収斂力がとても強い。建前とは違い、実際にオリジナルな選択が許されるのは、法外なコストを払うことができる人だけだ。

学校の選択、医療の選択、職業の選択。。。。

たかがキッチン、されどキッチン。そこに社会の本質が集約されているのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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古民家とIKEAキッチン

21世紀の今、都会人が古民家に暮らしたいという思いを支えるのは、まずは時間とお金。鶏か卵か、ではありません。圧倒的に、時間とお金が先。それがなきゃ、ていねいな暮らしなんて無理。

2年前にこの古民家を買った私はそのことを心の底からは理解していませんでした。

当面は、”as is”。できるだけDIY。できるだけお金をかけないで。

そうやって2年間、やって来ました。

これからは残り時間から逆算して、もうちょっと頑張って、東京の生活で余剰を捻出しようと思います。お金だけではなく、時間も。それで作った余剰を、他の何でもなく「いすみの古民家」に蕩尽するという、実にジレッタント的かつエゴイスティックな選択と集中。

昔の美しい姿を蘇らせたいから。トタンの外壁は下見板に戻したいし、アルミの窓は木枠の窓に戻したい。雨戸や建具はも修理したい。

DIYでできたのはせいぜい漆喰塗りや戸棚つけまで。本格的な木工事はやはり素人には無理だということが徐々にはっきり、分かってきました。

で、それらを頼める業者を見つけないといけないのですが。。。思いのほか、それも大変でした。現代の住宅規格から外れた古民家の木工事は、やってくれる工務店はなかなかない。古民家専門の建築家と宮大工に頼んだらやってくれるのでしょうが、どれだけお金がかかるかわからない。

この2年、建物の勉強もしました。必要なことではありますが、情報とうんちくだけが積もっていくのは空しいものです。やはり施主として先立つものはお金です。

「お金も時間もなくて、やってくれる工務店がないなら、何にもしなきゃいいんだよ。今が十分に素敵なんだから。もしかして、君は改悪しようとしてるのかもしれないよ」という夫。

ちなみに夫の理想は、川崎、向ケ丘にある古民家園の建物です。

私の理想は、それに少し洋風のテイストも取り入れて暮らしやすくした白洲正子の武相荘の姿です。

そうした理想を踏まえれば、夫の言う通り、大変なお金と時間をかけて改修しても、現代の古民家リノベーションの潮流の中で、必ずしもおもった通りの姿にならない可能性があります。実際、これまでに、たくさんの残念なリノベーションを見て来ました。現代住宅の機能性を求めすぎて竹に木を注ぐようになった古民家、建築家のエゴが全面に出た実験室のような古民家。素人のおかしなDIYのせいで昔の家の様式性や意匠がまるで失われた古民家。。。。

「とりあえず、キッチン、水周りをやれば。もちろん、僕じゃなく君のお金で」。

というわけで、キッチンに手をつけることにしました。

サー・コンラン卿のキッチン、桐島かれんの葉山の家のカントリーキッチン。たくさんの画像をPinterestで集めることから始めました。キッチンメーカーのモデルルームもたくさん、行きました。

桐島かれんさんの葉山の家。前は単に素敵だと思っただけでした。今はこれだけの空間を作るのに、どれだけの手間とお金がかかったかと考えます

でも結局、私の資力で買えるのはIKEAキッチンだけでした。

輸入キッチンではダントツに安いIKEAですが、それでも、覚悟が要る出費と時間、手間でした。たかがIKEAキッチン、されど、IKEAキッチン。施工前日に家に届いた136個の荷物。配管、配線、壁面、窓。。。。。施工業者、工務店とのコーディネーションもなかなか大変でした(現在進行中)。

IKEAのカウンターキッチン。プロの施工業者の技術は圧倒的でした

ビビりながらもスタートした、業者を使った古民家リノベーション。

ルードヴィヒ2世の例を見るまでもなく、本当に素晴らしいモノを作るにはお金も時間も忘れたエゴイスティックな狂気が必要なのかもしれません。

そんな狂気が自分に欲しいような、欲しくないような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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チベット男のLINEアニメーション・スタンプを作りました

おはようございます。

Adobeのアフターエフェクトを使って、チベット男のアニメーション・スタンプを作りました。良かったらご覧になってください。

https://store.line.me/stickershop/product/3057585/ja

昨年、イラストのスタンプを作ったときには、まだ、イラストレーターすら使っておらず、GIMPSという無料ソフトを使っていました。その後、Adobe Creative CCを導入し、1ヶ月、学校でアフターエフェクツの使い方を学び、やっとここまで作れるようになりました。

キャラクターを動かすには、DUIKという無料プラグインが便利なことをネットで知り、使い方を独学で覚えました。チベット男の四肢の動きは、DUIKを使っています。

人(と動物)の動きを再現するには、Kinematics(運動学)とInvert Kinematics(逆運動学)の両方があり、DUIKは<後者=手先、足先の運きから全身に動きを伝達させる>というものです。これまでアニメーションを漫然と見ていましたが、実際に作ってみて、いかにプロのアニメがすごいか、思い知りましたよ。

ちなみに、このような本やサイトを参考にしました。モーショングラフィックスの世界は物理学や数学など、私の今まで縁のなかった分野につながっていて、新鮮です。

Alan Beckerのアニメーションの12の原則

 

 

 

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【映画評】百円の恋ーー人生に求める、与えられるということ

例年をはるかに超える酷寒の今年。予想外のインフル罹患で一週間、外出不能に。

最悪期を超えても、頭がぼーっとしてまだ十分に読書も仕事もできないなか、Gyao!の無料配信で見たこの2014年の邦画。素晴らしい作品。出会えて良かった。

主演の安藤サクラ。奥田瑛二のお嬢さん。彼女の存在感が斉藤一子の実存に命を吹き込んでる

地方都市。母が弁当屋を営む寂れた商店街にある一軒家で、両親、出戻りの妹、その連れ子と一緒に住む32歳のニート、斎藤一子が主人公。

散乱するタバコの吸い殻、テレビのコード、リモコン、ジャンクフードの空袋、ボサボサの髪。モノが散乱した部屋と虚ろな目から示される、怠惰で無為なパラサイト生活。怠惰な姉に耐えかねた妹に自活を求められ、罵声を浴びせられ、取っ組み合いの喧嘩をし、一子は家を出る。そして、木造アパートを借り、百円ショップで深夜バイトを始める。

実家に前からいた姉さんに、出戻りで帰ってきた子連れの妹に罵られて家を出されちゃうなんて、一子、立場弱いな。

時給1200円で百円ショップの深夜バイトを始める一子。

きょうび、日本では、弁当屋や百円ショップを活用すれば、かなり安い生活費で生きていくことができる。だが、モノが安いということは取りもなおさず、そこで働く人の所得も低いということ。地方都市は寂れ、百円ショップは人手不足。そこで働く人たちの生活は底辺。映画に登場する愛すべき百円ショップの店員たちは、世の中の流れにも乗り遅れており、一子はじめ、誰もスマホを持っていない模様。当然、ツイッターもインスタもfacebookもやっていなさそうだ。。。。(中年店員は「ミクシーやってた!」と言っていたが)

乗り遅れているのはそれだけではない。世の中の嫌煙の流れに抗い、この映画、登場人物は主人公のみならず、ほぼ全員がヘビースモーカーだ。

顔も頭も今ひとつ。男性経験ゼロ、正社員経験ゼロ、コミュ障気味のこじらせ女子、趣味はテレビゲームの32歳。それがヒロインの一子だ。きっと、働き者の母ではなく怠け者の父に似たのかもしれない。妹は姉に似ず、普通に可愛く、機敏。おそらく一子は子供時代から妹に負けっぱなしの人生だったと想像される。

非モテという点で、一子はブリジットジョーンズを彷彿とさせるし、気だるく訥弁な感じは若い頃の桃井かおりにも似ている。だが、一子はブリジットジョーンズのように王子様との結婚を夢見て努力したり、背伸びしたりはしない。また、桃井かおりと似ているようでいて、「あたしって、実は自由で賢くて可愛いでしょ?」みたいな1980年代っぽい自意識や媚びとも無縁だ。安藤サクラ演じる一子は、草食系が極まり、バカにされても無視されても怒りすらしない。まるで伸びきったゴムのような淡白で無気力な受け身の態度がなんとも2010年代的だ。

何しろ。。。。。

職場のキモい44歳のオヤジに強姦されても、泣き寝入り。

バナナマンこと新井浩文(いつも百円ショップにバナナを買いに来る、引退直前の貧乏なプロボクサー)にナンパされ、いよいよ心温まる恋愛物語が始まるか。。。と思えば、こいつもまた人格障害気味の底辺男。バナナマンにいくら暴言吐かれても、裏切られても、一子は怒りもせず、抗議もせず、口をへの字に曲げて、うつむくだけ。

「ひゃくえん!ひゃくえん!なんでも、や・す・い!」ーー100円ショップのシュールな店内音楽(そして一子の初めての試合の入場曲)は、一子の「安っぽい」キャラの象徴でもあり、貧しく薄っぺらな現代日本社会の象徴でもある。

そんな一子、映画の中で2回、感情をあらわにして泣く。この映画、一番の見どころだ。

2回とも、一子はまるで子供のように嗚咽を上げながら、奥底にしまわれた感情をむき出しにして、長く、長く、泣き続ける。

バナナマンと初めて寝るとき。そして、もう一度は最後に、ボクシングの試合に負けたとき。

その泣き声の思いがけない激しさ、生命力に、観る人は胸を突かれる。

一子には隠された二つの強い感情がある。

まず、「愛されたい!」という感情。

そして、もう一つは、「勝ちたい!」という感情。

どちらも、他人に見せるのが恥ずかしいから、必死に隠している感情。

なぜ、隠すのか?

だって、きっと愛されるはずないから。

だって、きっと勝てるはずないから。

それでも私たちは、「愛されたい」「勝ちたい」と願わずにはいられない。これからの人生にそれが起きることを期待せずにはいられない。

その思いが、彼女を(自分を振った男がやっていた)ボクシングに向かわせた。愛されるか、勝てるか、分からない。人生が手遅れになる寸前に、彼女はガムシャラにそれを求めた。

「思いっきり戦うの、いいな。それに、終わった後に、敵と肩たたき合うの、いいな」ーーバナナマンに振られた後、一子は吸い寄せられるように、その男の通っていたジムに通い始める。

人と関わることを避けていた一子が、コーチにアドバイスを乞い、会長に試合に出して欲しいと頼み込むようになる。

猛練習を経た、初めてのボクシングの試合で、一子は完膚なきまでに負けた。

神様は一子が切ないほどに願った「勝利の味」を彼女に与えてくれなかった。

血だらけ、顔はボコボコ、あざだらけ。

だが、神様はそのとき、彼女に思いがけないプレゼントをした。「勝」てなかった彼女は、その思いもよらなかった瞬間に、愛を手にいれるのだ。果敢なチャレンジの後、正直に泣く一子の素直さが、冷血漢、バナナマンの心を溶かしていく。

新井浩文演じるバナナマンと安藤サクラ演じる一子の関係はちょっとサドマゾで、「道」のザンパノとジェルソミーナを彷彿とさせる。

幸いなことにジェルソミーナと違い、一子はちゃんと生きて男の愛を手にいれた。

そうすることで自尊心も手に入れた。

彼らは若くはないが、人生終わりという年でもない。

今の日本、どれだけ希望は少なくても人生は長い。

二人は一緒になるだろう。一子は実家の弁当屋を出て、二人は一緒に仕事をして、なんとか親がかりではなく自分たちの力で生きていくのだろうと思った。子供だって生まれるだろう。二人のおかれた状況からして、その後の人生は決して華々しくはないかもしれない。だが、それは少なくとも借り物ではない、自分の力で切り拓いた人生には違いない。

一子を鍛え、応援するボクシングジムの人たちがいい。必死に生きる、家族も、百円ショップの人たちも、みんな、いい。そこには絶対的な善人も悪人もおらず、予定調和的なハッピーエンドもなく、奇跡もなく、地方都市をリアルに生きる人たちの生がリアルに描かれている。これぞ、日本。これぞ、日本人。外国で暮らしている日本人が見たら、とても日本が懐かしくて涙が出るだろうな。

ネタバレどころか、ラストシーンのその後まで予測するなど、映画の紹介としておよそ、ふさわしくない記事になってしまった。古い(4年前)映画ということで、お許しください。

その後の物語まで観る人に想像させるほど、ストーリー構成の完成度の高い映画は滅多にない。フェミニズムとか、社会批判とか、そういう教訓に走ってないのも好ましい。新しいけど普遍的、普遍的だけど、新しい。

インフルエンザのおかげで、思わぬ拾い物。⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

 

 

 

 

 

 

 

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