月別アーカイブ: 2017年3月

【書評】何があっても大丈夫 櫻井よしこ

櫻井よしこさんはもう70代なのに現役バリバリのジャーナリストだ。テレビで見るお姿は、奇跡的に若々しく、頭脳明晰。それでいて清潔で優しげで美しい。ニュースキャスターをされていた頃より透き通った妖精のような美しさを感じさせるほどだ。

 

http://www.jimo2.jp/areanews/index.php?id=2148

個人的にはチベット関係のパーティーで一度、お姿を拝見したことがある。とても華奢な方で、ばっちりブローでヘアスタイルを決めていた。

櫻井よしこさんと、他の凡百の女性を隔てる壁は何か?

その清潔感の源はどこにあるのか?

それが知りたくて、自伝的な迷わない。何があっても大丈夫を読んだ。

彼女の秘密は、小さい時からお母様に言われ続けてきた「何があっても大丈夫」という魔法の言葉だった。夫に捨てられた極貧のシングルマザーの環境に陥っても、妬み、僻み、諦めに偏らず、自己卑下せず、人を恨まず、櫻井よしこさんのお母様の心は奇跡のように清潔なままだった。

人間、「大丈夫」な環境があるから「大丈夫」というのは簡単だ。大抵の人は、「大丈夫」な環境の下でも根拠のない不安と恐怖に押しつぶされて自分の足で一歩を歩みだせない。でも、彼女はほとんど大丈夫じゃない環境で「大丈夫」と呪文を唱え続けて、人生を切り拓いてきた。

結婚して子供を生んでという伝統的生き方を全く否定していなかったのに、結果的に、その人生はまるで修道女のようにストイックなものとなった。彼女のずば抜けた能力と社会的成功には、仕事を追い求めているうちにいくつも家庭を持ってしまうような破天荒でアウトライヤーな父親の血も関わっているに違いない。

ジャンルは違うものの、ひどい幼少時代を送りながら、素晴らしい仕事をし、清潔な人格を開花させた高峰秀子さんや、やはり生まれで苦労しつつも、自分の中の矛盾を統合して素晴らしい能力を社会で発揮したアメリカの前大統領バラク・オバマ氏のことを考えた。

 

 

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外便所を納屋にリフォーム

いすみの古民家には庭に古い外便所がありました。

畑仕事や庭仕事をする時に外便所は便利なものです。長靴で作業していて用便するとき、いちいち靴を着脱して家の中と外を行ったり来たりするのは面倒臭いですから。

でも、外便所は随分前から使われておらず、浄化槽ともつながっていませんでした。それで、私たちが入居したとき、すでにこの家の前の小屋は無用の長物と化していました。

掘立て小屋だし、大きさも中途半端だし。。。。正直、大切に残したいと思うような建物ではないのですが、ちょっと風情がある建屋ではありました。迷ったのですが、結局、外側を残して中身を取り払い、小さな納屋兼自転車置き場として再利用することにしました。

 

壁と扉、便器などの撤去や屋根の張り出しの拡張、トタンの張り直しは工務店さんにお願いしました。その後、屋根と壁のペンキの塗り直し、床の整備は自分で直すことにしました。

床を自分でやることにしたのは、工務店から出てきた見積書で「床のコンクリート打設」が思いのほか高かったからです。わずか2平米で6万円。

工務店から最初に出てきた小屋改装の見積もりは20万円弱でしたが、コンクリート打設以外にも費用を抑えるよう努力して、なんとか11万円強に抑えました。

ボコボコの床に砂と路盤材を敷いていきます。

       

家周りのDIYと外回りのDIYの違いは、後者は材料がとても重いことです。一袋20キロの砂袋をたくさん、買いましたが、運ぶだけでとても大変でした。それでいて20キロの砂は床に敷くとほんのちょっとにしかなりません。

 

東京で重いモノをほとんど持たない生活ですから、すごくギャップがありました!

ペンキ塗りは楽しい作業かな。。。と思っていましたが、ペンキ缶のフタを開けるだけで一苦労(泣)。

と、そんな大変な思いをして塗り終わった小屋の姿に大満足!

 

結局、材料、工具の費用なども合わせると、20万円くらいにはなってしまいました。モノを収納する場所ですが、中に収納するモノより入れ物の方にお金がかかる(泣笑)

数週間かけて作業している間に季節はすっかり春。再び庭の手入れの季節が到来しました。落ち着いたら、いよいよ本丸、キッチンと洗面所のリフォームに着手しようかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せ7:幸せの対極にあるのが嫉妬–映画アマデウスより

ちょっと古い映画ですが…1984年、ミロシュフォアマン監督の作品です。古いってなんと、もう33年前の映画です。

テーマは嫉妬心。

人間の持つ嫉妬心という普遍的な感情が神話的に描かれた映画だからこそ、多くの人の心を打ち続けているのでしょう。

時代は18世紀末のヨーロッパ、ウィーン。

サリエリの頭の中はモーツァルトでいっぱい。なぜ、あんな奴があんな作品を作れるのか?サリエリは煩悩と嫉妬の塊。完全にモーツァルトに取り憑かれている。「なんで俺じゃなくて、あいつなのか!」といつも心で叫んでいる。 

でも、モーツァルトにとってサリエリはただの業界の偉いオジサン。神童モーツァルトには世間にいい作品を発表して認められないという野心もない。彼にとって音楽は努力ではなく天から降ってくるもの。

そこがまたサリエリにはムカつく! なぜ、俺は努力してるのに、あいつは努力しない?なぜ、努力しない奴がしてる奴に勝つ? なぜ、俺はあいつのことばかり考えてる?

サリエリがモーツァルトとは無関係な自分の価値を認めることができていたら、異様な執着は消えていただろう。

世界中には、何百万、何千万の不幸なサリエリがいる。運動神経、頭脳、美貌、名声、才能、権力。社会でそれらは一部の人にしか与えられない。万人に与えられていないからこそ、社会は類い稀な才能を愛するる。だから必然的に格差は生まれる。

一番、不幸なのは美貌、名声、権力、才能から遠い人たちではない。それを求め、努力した結果、上位5%につけているが、絶対上位1%には入れない人たち。上位1%を絶えず意識している立ち位置の人たち。いつだって羨望の対象を意識しているのに、羨望の対象の方からは一顧だにされない人たち。

そんな人々の肥大した自我と嫉妬心から多くの混乱と悲劇が生まれる。

嫉妬する人は嫉妬の対象を愛してもいる。サリエリはモーツァルトを誰よりも理解し、愛している。愛しているからこそ、自分が惨めだ。非対称性を解消したい、嫉妬する対象と自分を同一化したい。だから、モーツァルトをストーキングし、殺し、最後は自殺する。

痛〜い、かわいそうな、あまりに人間的なストーカー、サリエリ。感情移入させてくれて、ありがとう。

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幸せ6–それに意味はあるのか?

「幸せ」というキーワードで、これまで変化率お金五感の歓びシャーデンフロイデを見てきた。

でも。

実は、古今東西のどんな「幸福論」にも、それらは本当の幸せじゃないと書いてある。どんな宗教も「欲望を満たすだけじゃ人生は虚しい」と説く。

虚しい、とは、意味がない、ということだ。

私たちは虚しくならないために意味を求める。

意味がある行為のためなら苦労だって厭わない。死さえ厭わないこともある。ジハードの戦士や、神風特攻隊員、子供を助けるために命を捧げる親のように。倒錯しているようだが、生きるより、死ぬ方が幸せだから、死ぬのであり、そうした人たちは目的に対して合理性を持っている。

 

人が人生の意味を求めるのは、命が有限で、金はあの世に持っていけないし、五感の快楽は長く続かないからだ。

金や地位はもういい。仕事で実績を残したい、業界の発展に尽くしたい、と職業人が強く思うようになるのも、衣食足りてキャリア後半の時間の有限性に気づいてからだ。前半生を利己的に生きてきた人が後半生、社会貢献活動に勤しむのも、自分の人生に意味づけするためだ。

古今東西、生きた足跡を何ら残さず死んでいく凡夫にとって最も人生の意味が感じられるのは、子供の存在だろう。父祖の遺伝子を次の世代につなぐリレーの役割を果たした、と感じられることは、何と言っても意義深いことだ。そうした幸せは平凡だが、深く、永続的だ。

人は意味を求めて子供を産み、育てる。

子供に先立たれるのが親の最大の苦しみなのは、それによって生きる意味が絶たれてしまうからだ。病気や事故で子供を失った親はよく、「二度とそうした悲しみを他の人が味わわないように」と、残りの人生を癌撲滅や交通事故防止などの社会運動に捧げるケースがある。苦しみのあまり「全ての親がこの苦しみを味わうが良い!」と世を呪いまくってもいいのに、そうならない。愛する子供の死を無駄死にしたくない、生きた意味を残したい、と思うからだ。そうした愛、意味を求める行為に私たちは崇高な人間性を感じる。

単なる物質的な豊かさは物語を生まない。消費者や財・サービス提供者として生きて死ぬだけでは「意味」は生まれない。

だから、経済力の指標であるGDP(国民総生産)で人の幸福を測りきれないのは当然だ。だからといってGDH(国民総幸福度)でもやはり、本当の幸福は測れないと思う。一人一人の人生の「意味」は定量化できない。

 

かくいう私も40歳を過ぎて、いちいちのことに「それって、どういう意味があるんだろう」と考えるようになった。「幸せって何だろう」と考えるようになったのも、意味の模索にほかならない。

残りの人生、なるべく意味のないことはやりたくない。いすみに週末居住して庭いじりするようになったのも、「意味」探しの一環だ。

でも、いすみで植物や動物を見ていると、私の「意味」探しは止まってしまう。動物は言うーー「意味って何のこと?」って。動物や植物は、意味など問わない。

私も同じだった。一番、幸せだった子供時代。意味なんて考えなかった。沈丁花の花の匂いにうっとりする。湖の水面のキラメキに、ワクワクする。ゆでトウモロコシの甘さを味わう。その幸せには、意味も、物語も、過去も未来もなかった。ただ、一瞬の言語化されない感覚があるだけ。

多分、年をとっていくことは、徐々に子供に戻ること。社会であまり役立たなくなり、生産性も落ちてくる。終いには他人の承認も、意味も、そういう知的でややこしいことは全て、考えられなくなる。

でも、そうなったからこそ、訪れる幸福もあるはずだ。子供時代の幸福の記憶が私にそうした確信を与えてくれる。

そう思うと、かなりリラックスして老いを迎えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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