鼠志野–偶然を大切にする

東京・日本橋にある三井記念美術館のイベント「親子教室」に不定期に参加するようになって2年ほどになる。能、狂言、漆塗り、絵画鑑賞の仕方、版画、日本絵画。。。その時々の特別展にちなんだ体験教室はどれも工夫が凝らされていて、日常では触れる機会のない本物の芸術に触れられる素晴らしい機会だ。上品で親切な美術館の学芸員の心遣いが素晴らしく、旧三井本館の建材をふんだんに用いた館内は実に落ち着く空間。月1度のこのイベントを子供以上に私が心待ちにしている。

直近のイベントのテーマは焼き物。今回は、特別展「国宝『卯花墻』と桃山の名陶 ―志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部―」にちなんで、志野の絵付け技術を陶磁家の先生から習った。

釉下に鬼板と呼ばれる酸化鉄の泥漿を素焼きのお皿に掛けるとき、「綺麗に掛けるのではなく、チャラチャラっと、地が適当に残るように流して掛けてください」と言われた(写真右の皿の黄色い部分)。

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チャラチャラと掛けた鬼板の模様は一枚一枚、さまざまだ。すると、陶芸家の先生は、「偶然出来たその模様を何かに見立てて、地の部分に模様を描いたり、鬼板が乗った部分を釘で削ってください」と言うではないか(釘で鬼板を削って模様を出す手法を「掻き落とし」と言うそうです)。

ちょっとがっかりした。真っ白な白紙のお皿に緻密に計算して好きな色を使って素敵な絵を描くのを楽しみにしていたのに。自分が作ったのではない模様を押し付けられるなんて。

とらえどころのない鬼板の模様を見て、さて何を描こうか?と思ったとき、ふと連想したのは、それって人生と同じ、ってことだ。

このお皿と同じ、人は人生を、まっさらな白紙状態から作れるわけではない。生まれるとき、親を選ぶことが出来ないし、生まれる場所や国も選べない。自分の容姿や持って生まれた運動能力も好きで選んだものじゃない。学校だって会社だって、配偶者だって、子供だって、自分の意思だけで自由に選べるわけではない。ましてや、自分の死期や死因も選べない。実は人生の多くのことが偶然や運によって決まっている。それらがそれぞれの人間に与えられた個別の条件として課されていて、その上で私たちは、「自由に生きなさい」と言われているわけだ。「自由に」と言われても、一人一人の人間に出来るのは、そうした偶然に与えられた条件を受け入れ、最大限に生かしてより良く生きる道に選び、意思決定し、行動していくということだけだ。

つまり、作品は意図と偶然の中間にあるという点で、人生は志野の絵付けと基本的に原理が同じなのである。

ハーバード大学のクリスチャンセン教授は、イノベーション・オブ・ライフ ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへの中で、企業そして人の人生にとって重要なのは、「計算(意図的戦略)」と「幸運(創発的戦略)」の2つのバランスだと述べた。物事はある側面では、目標に向けて計算し、意図して取り組むべきである。だが、その反面で、予期せぬ事態を素直に受け入れることも肝要だ。人間は、偶然に完全に身を任せ切ることも出来なければ、計算と意図だけで白紙の上に好きな絵を完成させることも出来ない。努力が実ることを信じて目標や希望を持ちつつ、不確実性、不完全性、遊びや偶然も受け入れなければならない。

中国人や西洋人が「白紙から作った完璧な焼き物」を目指したのに対し、日本人は古来、窯変や意図せざる歪み、経年によって生まれるヒビや質感の変化などを愛でた。不確実性、不完全性を大切にする感性が志野や織部のような焼き物を生んだ。

志野や織部の焼き物の美しさの本質は、自然と作為の絶妙なバランスの上にある。恐らく人生の美しいバランスも似たところにあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

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