雨ニモマケズ

宮沢賢治の童話は好きだったが、「雨ニモマケズ」は好きじゃなかった。

結構背は高くて167センチくらいだったと甥っ子さんのyoutubeで聞きました

意外と背は高くて167センチくらいだったと甥っ子さんがyoutubeで言ってました

何だか、校長先生の訓話みたいで息苦しくて。「それはどーだろうけど、そんな風に生きられるわけないよね。はいはい。スルー」みたいな感じ。世俗の垢まみれでドロドロな私には、自然を愛し、菜食で童貞で、清く正しく38歳で死んだ宮沢賢治はいつのまにか「伝記:日本の偉人その3」の世界でホコリをかぶった人になっていた。

ところが最近、読み返して発見があった。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

この詩が、賢治が「人々に説いた生き方」ではなく、「自分に必死に言い聞かせていた言葉」じゃないかと思い至ったのだ(そもそも『雨ニモマケズ』は公表目的ではない自分用のメモだった)。

そして、ありのままの賢治のすがたは、正反対なのだとしたら。正反対からの崖っぷちの涙の絶叫が、「雨ニモマケズ」の正体なのだとしたら。

賢治は、

雨にも雪にも負け、

丈夫な身体がなく、

欲があり、

静かに笑っていられず、

いつも他人に奢っていて、

グルメ好きで、

あらゆることを自分の損得に引き合わせて考え、

よく聞かず、見ず、理解せず、忘れ、

病気の子供も疲れた母もシカトし、

死にそうな人にも声をかけず、

喧嘩があっても自分には関係ないからと見て見ぬ振りをし、

日照りとも寒さとも関係のない恵まれた生活を送り、

いつかは社会に自分の価値を認めさせたいとの野心を抱き、

毀誉褒貶ばかりを気にして苦しみながら俗世を生きている

そんな人なのだとしたら。

「雨ニモマケズ」の読み方はまるで違ってくる。

私たちは、校長先生や社長の訓示、新聞の社説、権威ある人の「私たちは〜ねばならない」という道徳的強迫に子供のことから晒されつづけて、立派な言葉は言葉通りに受け入れるのが当たり前と思ってきている。だから「ねばならない」の背景事情に考えが及ばないことが多い。

私たちはあまりに空虚な理想論に慣らされきっている。

真面目な人ほど、「〜ねばならない」の先に確かな実体があると信じて、「ねばならない」を再生産して連呼して、決して自分自身が「ねばならない」そのものの世界に到達することはない(そもそも不真面目な人は決して「ねばならない」なんて言わない)。

もし誰かが強く「〜ねばならない」と説く背後にはなんの実体もなく、その反対の「決してそうなれない現実」が唯一の確固とした実体なのだとしたら。

説いている人自身、そうした理想に到達する方策も知らず、だからこそ気張って現実を否定して大声で「ねばならない」ばかり連呼しているのだとしたら。

「思いやりのある社会を実現しなければならない」、「物価目標を達成しなければならない」、「世界平和を達成しなければならない」、「中国はこう振る舞うべきだ」、「日本の若者はグローバル化するべきだ」。。。

世の中にはあまりに多くの「ねばならない」「べき」が溢れている。

でも、「should やmust」の先には実体がない。shouldやmust だけではなかなか目標は達成されない。気張れば気張るほど、理想は遠ざかっていく。それでますます気張る。まるで蜃気楼のようなものだ。

賢治って、きっとすごく人間的な、面白い人だったんだろうなあ。話がしてみたかったな。。。。

読書の秋。古民家修復しながら、ぼんやり、そんなことを考えている。

 

 

 

 

 

 

 

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