自分のための場所

受験は必要悪。受験生を見るにつけ、「ご苦労なことだな〜」「もう二度とやりたくない」と思う。

受験の何が大変かと一言でいうと、自分の土俵で戦えないことだ。全ての受験生が、全ての受験生と同じ土俵で戦い、「勝ち」と「負け」を認識する。

国語が得意だから国語だけで勝負するわけにはいかない。国語が得意で算数が苦手なら、得意科目ではなく、むしろ苦手科目の算数の克服により多くの時間を割かなければならない。

そう、私たちはずっと得意科目を伸ばすことよりも、苦手の克服に多くの時間を割くよう教えられて来た。マラソン大会では長距離が苦手な人も走れるように。家庭科の時間は誰もがエプロンを縫えるように。気が短い人は辛抱強くなるように、おとなしい人は勇敢になるように。

それは、社会構成員に最低限の共通能力を育成するという点では良いのだろう。だが、そうした標準化の代償として、学校教育や受験に過剰適応した個人は、自分の苦手分野を常に克服すべき対象と考える大人になる。

ところが、実社会のロジックは違う。より大切なのは苦手分野の克服ではない。むしろ得意分野を知り、その分野に身を置き、その分野をずっと愛し続ける能力である。

社会で生きていくのに、全ての項目をまんべんなく80点にする必要はない。選択の自由を行使して、得意分野に特化することで、自分の「苦手」が目立たない立ち位置に立ちさえすれば良い。むしろ大切なのは、得意分野を見つけることで、苦手分野から少しでも早く離れることだ。

逆上がりなんかできなくても何のハンデにもならない。むしろハンデになるのは、逆上がりができなったことで生まれたトラウマだ。

世の中には社会で成功し、素敵で、全てに恵まれ、幸せそうで、何の欠点もないスマートな人がいる。

浅田真央が因数分解が出来なくても、世界は全く困らない

浅田真央が因数分解が出来なくても、世界は全く困らない

そういう人は欠点がないのではない。そうではなくて、欠点が目立たない立ち位置に立っているのだ。換言すると、コンプレックス(=苦手分野に対する複雑な感情)を持たない人とも言えるだろう。

算数が苦手なら、算数を克服するのではなく、算数とは無縁の世界に生きればいい。料理が苦手なら、克服するのではなく、料理と無縁の世界に生きればいい。日本がイヤなら、日本以外の場所で生きればいい。より大切なのは、算数が嫌いなことが目立たない場所、料理が嫌いでも生きられる場所、日本以外の場所を見つけて、そこで居場所を見つける能力だ。世界は広いから、そういう場所はいくらでもある。

だが、コンプレックスがある人は、そうした「自分のための場所」が見つけられない。どうしても「苦手な算数を克服しなければ立派な人間になれない」と考えてしまう。そうやって、苦手分野からいつまでも手を引けない。わざと苦手分野にこだわり続ける。こだわり続けることで、いつまでも苦手分野にアンビバレントな感情を持ち、苦手分野で活躍する人を憎んだりする。「イタイ人」とは、苦手分野へのコンプレックスから抜けられない人にほかならない。

苦手分野や苦手意識を生むのは学校教育や受験だけではない。姉や妹と常に外見の美醜を比べられ、他人の目によって自分が劣っていることを意識させられてきた女性は、大人になっても美醜に対するコンプレックスから抜け出るのが難しくなる。「美人でなければ認められない」「でも私は美人じゃない」という脅迫観念から抜けられない人はイタい人だ。「美人、不美人」という価値観から抜け出して初めて彼女はスマートになる。

苦手意識やコンプレックスのない10歳までの子供はどんな子も綺麗な顔をしている。でも他人と自分を同じ土俵で比較する思春期になると、自意識と恐怖にとらわれて子供の顔は濁り始める。

全ての受験生が、コンプレックスの残らない大人になりますように。

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