溜っていくモノ

特段、捨てられない体質でも、ショッピングマニアでもないつもりだが、それでも46年間生きた中でモノがジワジワと増え続けている。

長く欠乏の時代を生きて来た人類には溜め込む習性が染み付いている。だから食べ過ぎたり、買い過ぎたりしてしまう。カロリーが過剰な現代は、「食べ る」より「食べない」ことが重要だ。同じように、モノが過剰な今、私たちは、「欲望を抑える」「買わない」「もらわない」「捨てる」に慣れるしかない。

メモにしようと山にして積み重ねておいた職場のプリンター用紙の裏紙。もう一生かかっても使い切れない。雑巾にしようと取っておいた自宅のくたびれたタオルも同じ。メモ帳と雑巾は死ぬまで買う必要がない。決して買ってはいけない。

もらい物も溜まっている。お祝い返しやイベントのお土産でもらう日本茶や紅茶。「お茶は消耗品」とう認識のせいか、贈答品としてお茶はポピュラー。でもコーヒー党の私にとってお茶を飲む機会はせいぜい一週間に一回くらい。リプトンのティーバッグが沢山あるから、もらった紅茶はとても飲み切れない。差し上げられるようなお茶好きの知り合いはすぐに思いつかないし、結局のところ、もらい物を横流しできるほど気の置けないのは実家くらいしかない。実家も紅茶は要らないと言う。放置すれば半年、一年、二年の歳月がいとも簡単に過ぎていく。かつての高級贈答品は無価値な不良在庫となり果てている。

昔、大枚をはたいて買ったバーバリーのコート、革ジャン、マルニのフレアスカート。特段、傷んだ場所もなく、まだ着られる。でも微妙に流行遅れだし、もはや体型にも合っていない。買って1年や2年だったらリサイクルショップに出せる。でもさすがに20年経ったものは誰も引き取って呉れない。20年前に一生物と思って買ったブランド物のスーツを着たのは結局、5年だった。20÷5=4で、1年間4万円の高い買い物となったわけだ。もう着なくなってから15年も経ったのに、20年前に払った20万円を埋没コストとして割り切りたくない自分がいる。理性で考えれば、着ない服の保管に都心のトランクルームを使い続けるのはお金の無駄以外の何でもない。塩漬けの株よりさらに始末が悪い。

一生かかっても読みきれない本も眠っている。今夏のアメリカ旅行の後、25年前にフランスで買った「アメリカのデモクラシー 」を初めて読みたいと思った。でもトランクルームのダンボールを開けるのが面倒臭くて、結局、図書館で日本語版を借りて読んでしまった。図書館はお金だけでなくスペースの節約になる。さらに本の場所を探す手間も省けて時間の節約にもなる。自分で本を買って持つよりずっといい。

シンガポールで買ったインドやタイの調味料。1度か2度使って埃を被っているものばかり。「日本では買えないから」と思ってこれまで捨てられなかったが、さすがに3年以上過ぎた今、全部捨てる英断が必要と思われる。インド料理やタイ料理は自分で作るモノではなく、食べに行くものと割り切るべきなのだ。

どこの家もモノが溢れているのは、現代の生産力があまりに巨大だからだ。印刷に時間がかかるインクジェットプリンターを使っていればプリントの裏紙はそれほど溜まらないが、大量印刷が容易なレーザープリンターを使うと、無駄な印刷が増え、裏紙はあっと言う間に溜まる。飲み切れないほどの紅茶の葉が自宅にあるのも、世界中で有り余る量の紅茶が生産され、それが安価だからだ。ユニクロやギャップのカジュアル服は安くてデザインが良いだけでなく、丈夫で10年経っても破れない。消耗品なのにまるで耐久消費財のよう。使えるモノを捨てたくない人は買い過ぎに注意。

人生後半になってくると何より大切なのは時間とスペース。モノには厳正な在庫整理が不可欠だ。

食べたいのに食べないことが苦しいのと同様、まだ使用できるものをモノを捨てるのは本能に反している。よほど思い切ってやらないとなかなかやる気にならない。

それでも冷酷に捨ててしまおう。マルニのスカートも、高級紅茶も。同時に感情も、記憶も捨てよう。それは辛いが、後にはきっと、思いがけないほどすっきりした壮快な気分が待っている。

色づき始めた公園の緑。自然はゴミを生み出さず、循環しながら美を生み出している

色づき始めた公園の緑。自然はゴミを生み出さず、循環しながら美を生み出している

 

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