書評:阿修羅の呼吸と身体

朝、起きると30分の軽い体操と短い瞑想をするようになって1年。始めてみると実に手軽で快適なこの習慣。もう一生手放さないだろう。これだけで、風邪は引かないし、心は落ち着くし、お腹ぽっこりは治る。

昨秋にロルフィング10回のコースを体験して、自分の身体の歪みを自覚してからは、とくに背中と腰椎を伸ばし、股関節の可動域を上げることに重点を置くようにしている。あぐらもろくにかけなかった私が、この1年で短時間なら半跏趺坐を組めるようになった。できれば座蒲なしに結跏趺坐が組める身体を手に入れたい。というわけで、東京の五反田で座法を教えておられる勇崎賀雄さんのこの本を読んでみた。

「阿修羅」の呼吸と身体―身体論の彼方へ

身体論がメインテーマの本書の内容を一言でまとめると、現代人は脳の思考や言語偏重の世界に住んでおり、目に見えないものや身体をないがしろにしている。こうした弊害には行法によって対処できる」というものだ。

ただ、こんな風にまとめるのが躊躇われるくらい、400ページを超える本書には実に多くの内容が詰まっている。学校の体罰から、地球の成り立ち、音楽とリズム、呼吸法の歴史から、脳科学、生物進化の歴史、ハイデッガーの哲学、仏教、道教、儒教、フリーダ•カーロ、キースジャレットまで、縦横無尽。実に多くのトピックスが多くの引用を用いて説明されている。巻末の参考文献だけで数百冊。それも、自然科学、社会科学、人文科学の傾向の異なる本がずらり。筆者と似た感性や方向性を持つ人にとっては、絶好のキュレーション、水先案内だ。

ただし、あまりに多くの内容が詰め込まれているあまり、マーケティング目的でテーマと焦点をしっかり絞らった編集がなされた売筋本や、狭い専門分野に絞られた専門家の本に慣れている一般読者にとっては、話の飛び方がものすごく、読んでいて疲れてしまうのも事実だし、一つ一つのトピックスの掘り下げが浅いまま、次のトピックスに移ってしまうようにも感じられる。「タイトルに偽りあり!呼吸法についてほとんど何も書かれていない!要するに何が言いたいんだ!まるで酒場の与太話みたい!」と思ってしまうのだ。そういう点で対照的なのは、おそらく本書の筆者と似た主張を持ち、おそらく教養量も負けず劣らずありながらも、素人向けにテーマを絞ってさらっと分かり易く展開するプロの書き手、斉藤孝さんの著作である。

それでも、行者として説教ぶった言い方をせず、(いかにも早大文学部出身者らしく)寄り道しながらありとあらゆる事象に雑食的に知的関心の食指を拡げていく本書は面白い。大抵のノウハウ本なら5分で読み終わってしまう私のような身体オタクの読者にとっては、実に噛みごたえのある本だった。

興味深かった箇所をランダムに抜き書きすると。。。

人間は呼吸を意識をコントロールできる唯一の動物であり、呼吸のコントロールによって言語を獲得した。

人間は身体の痛みに価値を見いだす動物である。

人間は生命の営みを支える無意識)(自然)の系列である内胚葉由来の内蔵系と、活動を代表する脳と筋肉の系列である外胚葉由来の体壁系という二つから成立している。内蔵系(=はら)は感じる、体壁系(=脳)は考える。

人間の身体の非自然化は直立二足歩行によって始まった。直立歩行によって背と腹の陰陽のバランスに混乱が生じた。そうした混乱を調整する手段が坐法である。

坐る姿勢は背骨に垂直に気が通ることを最もよく感じさせてくれる姿勢である。

修行の基本を行法に据えた仏教は、自然と非自然の統合、完成を目指すものだった。

中世とルネッサンスは身体の反逆の時代。それに対して近代以降は頭脳化の時代で、心身症は脳が生み出す邪気(自意識の過剰)が原因。そうした問題を解決する方策が、生活に行法を取り入れること。

気とは、陰と陽をつなぐものである。

 

 

 

 

 

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