【書評】下に見る人 酒井順子

昨日に続いて酒井順子さんの本の批評。

下に見る人

酒井順子さんは、「人を見下す人」を批判する。だが、金融正統派がリフレ派を批判したり、ワーキングマザーが専業主婦を批判するように、自分と反対側の立場の人を批判しているのではない。「私はいかに小さい時からあらゆる場所で人を見下し続けてきたか」と、過去を自省し、「少なくとも私は人を見下し、いじめた自分を認識している。でも世の中の大半の人は認識していない」、と能天気ないじめっ子である日本のマジョリティを批判しているのだ。一方、その反面、日本が経済成長したのは、人々が他人に差を付けて、自分が見下さらないようにとの一心で上を見てがんばってきたおかげだとして、見下しの精神こそが日本の経済発展の原動力だったとも述べている。

40代の酒井さんが回顧する「他人を見下してきた自分の過去」は、主に小学校から大学生までだ。異質な転校生への見下し。衛生観念に欠けた同級生への見下し。私立中学校における、エスカレーター式の小学校から進学してきたグループによる受験組への見下し。高校でのセンスの良い人の悪い人への見下し。女子高生の女子大生への見下し。大学での東京出身者による地方出身者の見下し。そうした「見下しの過去」を経てきた40代の酒井さんは、そうした見下しがいかに根拠薄弱で無意味で、見下された側にとって残酷だったが、だが見下す側にとって快感だった、見下しの構図があらゆる場所に普遍的に存在したかを回顧する。酒井さんは清少納言の枕草子における強烈な田舎者蔑視の精神に触れることで「見下しの精神」をさらに掘り下げて、見下しとは、「『上の下』に這い上がり、『上』の階級に所属し続けようとギリギリしがみついている人が、下の人間を見下すことで、自分が逆に見下されることを防ぎ、安心感を得ようとする精神構造」と分析する。

「見下し」というと軽いが、同じ言葉を「差別」と置き換えると深刻になる。私たちは小さい時から「差別はいけない」と習って来た。仏教は、「こちら側とあちら側」にやたら線を引きたがる人間の精神を無明と呼び、この最も愚かな幻覚を乗り越えることが悟りへの一歩としている。にもかかわらず、他人と自分の間に線を引き、「少なくとも私はxxよりはマシだ」と見下すことで安心感を得ようとする気持ちは大人にも子どもにもあまりに普遍的なものだ。

だが、酒井さんには見下しの精神を絶対悪として裁く正義感はなく、「バカなんだけど、面白いんだよね~、皆、そうだったよね~、」とおチャラけて、「ね、私って冷静に物事を見ているでしょう?」と読者にウィンクする。

理屈っぽくて、率直で、バランス感に満ちて、しかも含羞に満ちた酒井順子さんのキャラは典型的な東京の山の手の女子高のもので、懐かしくも共感を感じる。だが反面、人間性のブラックな面を風俗として暴くだけの彼女のスタンスに閉塞感や救いのなさを感じるのも事実。明確な倫理で貫かれていないから読後感が悪いのだ。

見下しが集団精神となっていた同質的な中高大学生社会のバカバカしさを酒井さんと同じように体験した40代の読者としては、「では見下しは人類に普遍的なのか、否か?見下したり、身下されたりしない、人と人が平行な関係でつながる社会の建設は可能なのか?」というテーマを恥ずかしがらずに正々堂々と掘り下げてくれたらいいな、と思う。

給食袋を洗わない不潔な同級生を仲間外れにして苛める小学生とナチスのユダヤ人大虐殺の精神の間には距離があるのか、ないのか? 貧しい人、ダサい人、太った人、みっともない人、頭の悪い人に感じる「見下し感」、「同情心」、そして「慈悲」の違いは何か? 外部を見下すことにより集団の結束を図る思春期の精神は、必要悪としての通過儀礼なのか?

「見下し」についてそこまで深耕し、酒井さんのような当事者意識と率直さを持って取り組む人の本があったら、きっとその本は本書よりもさらに興味深く、多くの人の役に立つだろう。

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