【書評】かっこ日本人 橘玲

(日本人)

橘玲の本のテーマや問題意識の大半は、私の関心の対象と被る。彼の本に出てくる参考図書はすでに読んだ本がとても多い。彼の本を通じて知った著者や本もある。

ただ橘玲の頭は私の100倍いい。彼の本は一種の書評集、読書ガイドブックと言えるほど、他人の著作の引用が多いのだが、そのキュレーションの手法は学ぶところが多く、比喩のセンスも卓越している。人類の生物学的条件から政治、経済理論まで、彼の本はいつも情報量が多く、そうした情報から導かれる結論は読者を挑発して、考えさせる。

たとえば、上記の本にはグローバル化を語るなかで「分業が人類の繁栄をもたらした」というくだりがある。そこで橘玲はさらっと次のような小さな注釈を入れる。

分業が進んで経済が高度化すればするほどひとびとは不安になり、社会が不安定化するのは避けられない。自分一人ではなにもできなくなることがゆたかさの条件であることを考えればこれは当然で、安定と成長は両立しないのだ。

私たちがエコロジーや田舎暮らしに引かれるのは、「生きていくために必要なこと(食料の生産など)」をすべて自分でしたいと思うからだ。これは心理的には大きな安心をもたらすが、現実には「エコな生活」は高度な市場経済を前提にしてはじめて成立する。誰もが分業をやめてしまえば、人類は狩猟採集の旧石器時代に戻るほかはない。

高度資本主義社会の消費生活にどっぷり浸かりながら、突然、編み物や味噌作りがしたくなったり、チベットやスリランカのような国の人々の生活に惹かれる私の心をそのまま表現したような文章。機械化・分業vs手作り志向、産業社会vsエコ志向はコインの表と裏なのだ。橘玲の本には、こうした「そう、そうなの!」と手を叩きたくなる表現が頻繁に出てくる。

日本人というリスクという本には「伽藍とバザール」の比喩が出てくる。ひとの集団が物理的・心理的な空間に閉じ込められている状態で、学校のような外部から遮断された世界が伽藍、店を出すのも畳むのも自由な世界がバザールだ。リバタリアンである橘玲は、読者をネガティブゲームの伽藍の世界から抜け出して、ポジティブゲームのバザールの世界でリスクを取ることに誘い、ネット社会の向こうに国家がない自由な世界の到来を展望する。

この伽藍とバザールは、乱暴な二元論ではあるものの、美しい比喩だ。たとえば、昨日書いた書評記事の「談合文化論」は、過密で同質的な日本という伽藍の中で、どのように建設業の職業共同体が営まれてきたかを語る本といえる。私が中学校時代に学校で感じた居心地が悪い感覚は、伽藍の中の「空気の支配」が生む閉塞感そのものだった。反対に、初めて外資系証券会社で働いたときに感じた開放感は、バザールの自由によるものだった。

また別のところで橘玲はこう言っている。

明治維新から今日に至るまで、日本の課題は”グローバル”という未知との遭遇だった。「外国」はつねに日本社会の大切なもの(文化や伝統)を侵す脅威であると同時に、世界のしがらみ(社会の閉塞感)からひとびとを開放する福音でもあった。

そう。日本人は「グローバル」「外の世界」に対してアンビバレント。ハーバード、マッキンゼー、ゴールドマンサックス。。。日本人は外国の権威に憧れる。だが、無意識のうちに自分たちの一番コアの部分をそうした外国から守ろうとする。この引き裂かれた思いは社会全体にも一人一人の個人の中にもある。

このように、読者に「まるで自分のことが書いてあるような」、「この人と私は気持ちが通じている」と思わせて、「次も読みたい」と思われることは作家にとって一番、大切なことだ。

橘玲の主張には、強引過ぎて付いていけないとこころもある(「日本人の子持ち女性が働きたがらないのは『ママ友コミュニティ』から退出したくないから、と主張。これは現実に無知なとても外れた見方と思う)。

あんまり日本人を糾弾するそのやり方に、「そんなに日本がイヤで駄目なら、日本人相手に危機感煽る本を書くのは止めて、リバタリアンの本場サンフランシスコで自由に暮らせば?」と突っ込みたくなることもある。

それでも、私はこの人の問題意識と文章の尖った感じから受ける刺激が気に入っている。次も新刊が出れば、きっと買ってしまうだろう。

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