書評「談合文化論」

昨日の記事に「物事をさまざまなアングルから見るべし」というチベットの教えについて書いた。本書は、まさにその大切さを学べる最適の本。

談合文化論

良かれ悪しかれ、日本文化や国民性を形作る特徴は、人口稠密で退出不能な農耕社会によって作られたものだ。日本人が、辛抱強く、愛想笑顔を浮かべて、正直で勤勉なのは、常に多くの人に囲まれていて属する共同体から逃げられないからだ。

街角の工事現場でヘルメットを被って一日中旗を振り、「危ないですよ~、自転車から降りて歩いてくださ~い、毎度、ご迷惑すいませ~ん」、と通りがかりの人々に愛想笑いを振りまき、ペコペコ謝るオジサン。ロボットではなく、本物の人間。暑い日も寒い日も、信じられないほど我慢強く。

オジサンがそこに配置されている本当の理由は通行人の安全ではない。雇用対策だ。土建業の仕事は日本の雇用を支えている(就業人口の8%)。「非効率な」「不要不急の」土建の仕事を全てなくしてしまえば、日本は失業者で溢れ返る。地方社会の荒廃はさらに進み、災害復旧などの必要な仕事がスムーズに行われなくなる。

筆者によると、港湾、土木、炭鉱などのきつい仕事を社会の下層の人々に分配し、お上に対抗して業界を自治して「皆で仲良くご飯を食べられる」ことを目指した話し合いの仕組みこそが談合の起源だという。

退出が不可能な過密な共同体と弱肉強食の完全競争は両立しない。プレーヤーが多すぎるところで無理に競争すれば、お互いがお互いを死ぬまで叩き合う壮絶なダンピング競争が起きる。採算をはるかに割れる価格で受注した仕事は手抜き工事や技術の低下につながる。社会を成立させている小さな共同体の秩序が壊れ、最低限のセーフティーネットを前提とした心の潤い、良い物を作る職人の気概、生活の基盤も失われていく。

もし自由契約社会なら、とんでもなく安い仕事を元請けから押し付けられようとしたら下請けは断れば良いのだ。そうやって断ったり退出する人が増えれば、市場原理が働いていつかは仕事の値段は上がるだろう。だが日本の経済システムの下では事実上、下請けは元請の要請を断ることができない。断って嫌われたらもう仕事がこないから。一旦退出したら、もうそれ以外の仕事はないから。元請の方でもそうした下請けの弱い立場を知っているから、それぞれの下請けの体力を推し量り、技術と業容を維持して食いつないでいけるだけの価格と量の仕事を割り振ってきたわけだ。筆者はこうした人的関係に基づいた共存関係が日本の経済社会のリアリティで、もともと日本に「自由社会」などないという。

だが小泉政権以降、新自由主義の考え方に沿って談合は絶対悪として否定された。職人は苦境に陥り、高い技能を持つ職長でも家族4人を養える500万円の年収を得ることが難しくなり、技術を若手に継承していくことが難しくなっているという。

本書は戦前、戦争中、戦後岸政権下での談合の実態の変遷について解説し、田中角栄首相の時代に生まれた利権の構造を詳しく説明する。田中元首相の推進した政治によって、もともと民間の自治のためだった談合は、官、政と癒着した談合に変質し、「『民』がパーなら、『政』はグー、『官』はチョキ、という三すくみのジャンケンポン構造になっていった。

今日の都市中間層の私たちが「談合」という言葉を聞いて感じる、前近代的でどす黒くイヤな感じは、この田中時代の利権癒着構造のイメージから来ている。だから、「自民党をぶっ潰せ」と叫ぶ小泉元首相に正義を感じ、快哉を叫んだ、のだが。。。

筆者は、談合復活を唱える立場ではあるものの、談合に対する善悪の判断を一旦停止して、門外漢に土建業を巡る日本史を丁寧に解説してくれる。本書を読むと、全ての物事は善悪相半ばしており、真の姿はイメージと違うことが多いほか、実態は時と状況によっても大きく変化することが分かる。筆者が語る日本の政治、経済、文化の底を流れる深い水流はとても刺激的だ。

日本で組織に属さないフリーランスが自由契約に基づいて適切な報酬を得たり、大きな経済的成功を得ることが難しい理由、伝統的企業で女性や外国人などのアウトサイダーが依然として活躍しにくい本質的理由もこの本を読むと分かる。ヤクザと日本―近代の無頼 (ちくま新書)についてなど、同じ筆者の本をもっと読んでみたい。

 

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