幸福を妨げる間違った信念

日々の私はスピリチュアルからほど遠く煩悩に満ちている。

ご無沙汰している知人に気軽に送った「元気?」のメール。すぐ返ってくると思ったら、こない。もう何日も。イライラする。「メールをすぐに返さないのはだらしない」と怒りたくなり、「返事がないということは、もしかして嫌われているんじゃないか、わざと書かないんじゃないか」と不安になる。そして同時にそんな些細なことに寛容になれない自分がイヤになる。心に余裕のない自分が哀れになる。「迷惑メールに入っているかもしれない。悩みごとがあって助けを求めているのかもしれない。電話してみようか?」と思う。だが、電話口で呑気な声を聞くとイライラするだろう、と想像する。留守電だとさらにイライラが募るから放っておこう、私も忙しいし、と思う。他のイライラも相俟って、その人にそもそもメールしようと思いついたこと自体を後悔する。

コンビニのコピー機のコインボックスに50円のオツリを忘れた自分に腹が立つ。50円のことをいつまでも考える。

知人の本が大々的に新聞で広告され、それが売れていることを知る。喜ぶどころか落ち込んでいる自分がいる。そして、落ち込む自分、妬み、嫉む自分にもう一度落ち込む。

怒り、落ち込みは、まず外部現実への失望となって現れ、次に失望している愚かな自分への自責に変わる。苦々しい思いは心の中でシンフォニーのように二重にも三重にも広がっていく。

怒りや落ち込みは、友人からの「ごめんね〜、忙しくてすぐに返事出来なかった!」の声であっと言う間に雲散する。50円を失った「苦しみ」は数時間で解消する。妬みの感情は一週間で消える。

くだらない悩みだ。過大債務による経営不振、不治の病気、愛する人の喪失、津波の被災いった大きな苦悩とは比べ物にならない。それでも、次から次へと小さな新しい問題は生まれ、そうした無数の問題に日々、私が苦しんでいるのは紛れもない事実だ。

逆に嬉しいこともある。思いがけず同僚から優しい声を掛けられたとき。自分の仕事に対する好意的な反応と支援を外部から得たとき。満員電車で、たまたま自分の前の席が空いて座れたとき。ゆっくりコーヒーを読みながら、面白い本を読んだとき。気持ちの良い陽気にゆっくりとジョギングしているとき。

私にとって人生は潮のような「ラッキー」と「アンラッキー」、「小さな苦しみ」と「小さな喜び」の連続。「幸せ」とは、「ラッキー>>>>アンラッキー」のことだ。恐らくそれは誰でも同じだし、人生はそのようでしかありえないだろうと思っていた。

だが、「ひとりきりのとき人は愛することができる」という本を読むと、こうした人生観が恐ろしい間違いだということが分かる。

デメロ師によれば、私たちの幸せを妨げている誤った信念は4つある。

1 執着していたり、とても大切にしている物事がなければ、私は幸せになれない

2 幸福は将来、やってくる

3 私が何とかして今の状況や周囲の人々を変えさえすれば、幸福が訪れる

4 自分の欲求がすべて叶えられれば幸せになれる

人々にとってこうした信念は唯一の世界なので、それを事実や現実だと思い込んでいる。

だが、それは夢(パラドクス)に過ぎない。夢は興奮と快楽を生み出してくれるが同時に悩み、不安定、緊張、不安、恐れ、不幸を生み出す。

夢にすがりつかなければ外部世界によって傷つくことがない。

幸福になるには、外部の承認に依存している自分のこころにきづき、「行為」と「結果への期待」を完全に切り離すこと。見返りや承認を求めないで行為すること。

販促用のダイレクトメールを送り、それに返事がなかったからといって個人的に傷つく人はいない。そこに執着していないし、それに依存していないからだ。誰かにメールを送るときも、そこに自意識を一切まじえなければ、失望につながらない。

そして皮肉にも、そうした行為は結果を求める行為よりもはるかに有効なのだ!

デメロ師は1987年に亡くなったインド人のカトリック司祭。そのメッセージは一貫していて、「自分の心の歪みと幻想に気づくこと」。メッセージの内容はクリシュナムルティと驚くほど似ている。クリシュナムルティが難解でちょっと冷たい文体なのに対して、デメロ師の言葉の方が柔らかくて分かりやすい。

↑デメロ師の生前のアメリカでのスピーチ。話が上手。これはパワフル!

 

 

 

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