幸せ

ホモ・サピエンス全史によれば、狩猟・採集社会から農耕社会、農耕社会から産業社会に移っても、それぞれの時代を生きる人間の幸福度は必ずしも高まらなかったという。

これは、個人の人生にも当てはまるのかもしれない。幸せは降って来るもので、追求するものではない。新しい技術や生活様式によって、社会全体が「便利」にはなる。「豊か」にはなる。なら便利さや豊かさと幸せの関係はどうか。

たとえば、冷蔵庫は私の生活の仕方を変えた。でも、私は冷蔵庫によって幸せにはならない。不幸にもならない。パソコンしかり。facebookしかり。

昔の主婦は手で洗濯物を洗った。冷蔵庫がないから食べ物の買い溜めはできなかった。家事が省力化されていない社会では、女性が社会で働くのは難しかった。今は、家事労働はすごく省力化されているから、主婦の仕事で女性の時間が余るようになった。だから、女性も外でお金を稼ぐために働けるようになった。

そうした変化がわずか一世代の間に起きた。

すると、昔はいなかった、お金を稼げる主婦と、お金を稼げない主婦の格差が生まれる。能力による賃金格差が生まれる。お金を稼げるようになれば、男性に養ってもらう必要もなくなり、結婚しない女性も現れるし、子供を産まない女性も現れる。カネは生き方の自由を生み、生き方の選択肢が広がる。

科学技術の発達や、社会の富の蓄積によって、生き方の選択肢の自由がある社会になる。

でも、選択肢は個人の幸福をもたらしたかな?選択肢のある社会で生きる女性は選択肢のない社会の女性より幸せかな?

そうじゃないとは言えない。相対的にはそうかもしれない。でも絶対そうかどうかは分からない。

でも、たとえば、私は母より、幸せなのか?女性は選択肢が増えると、どんどん幸せになるのか?

私は「母より私は幸せか?」と言った。そうやって自分と母を比べた。

私たちは、なんでも比較する。「私はxxより幸せか?」「私は昔より幸せになっているか?」。そういう比較の精神そのものが、社会の進歩と情報の流通によってもたらされた。

江戸時代を生きた私のひいひいひいおばあちゃんは、決して、私のように人を比較しまくったりはしなかっただろう。

そもそも、したくても情報がないし。

今は情報が多い。お金、年齢、体重。それなら、どちらが多いか、少ないか、すぐに言える。物事を客観的、定量的に捉えることに慣れた私たちは、幸せを幸福度のような定量指標で捉えようとする。そして、そうした指標の数値を最大化することで、「より幸せな社会」を作ろうとする。

でも、本質的に、幸せは比較できない。なぜなら、主観的だから。母が心で感じていることを私はわらかない。話合ってわかるものでもないし、第三者が判断できることでもない。

幸せは、曖昧な、捉えどころのないものなのに、すべての人は求めながら生きている。幸せになりたいと思って生きている。お金を稼ぎたい、体重を減らしたい。結婚したい。子供を産みたい。皆、幸せになるため目標に向かっている。保険の契約をライバルに先んじて取る。世界の戦争をなくそうとする。死にそうな人を助ける。人を笑わせて喜ばせる。古民家を修復する。

人は幸せになろうとして何かをしている。幻想の幸せだろうが真実の幸せだろうが、誰もが幸せを追求している。私も。

一番の問題は、幸せは「なる」ものではなく、今ここにある感覚だということ。感覚は、降ってくるもので、求めたり、努力したりしては得られないということ。

だとしたら、なぜ、社会は幸福と無関係に進歩したり、変遷したりするのだろう。

そこには私たちの思考様式の中に、何か根本的誤解があるのかもしれない。

ハラリさんの本を読んで、こんな小学生が考えるような幸福論についてもう一度、考えたくなった。幸せという明確な価値判断を軸にした、とても壮大でオリジナルな歴史の本。真の独創性は、新しいものを創り出すことではなく、思っていることをそのまま口にすることなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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