小野田寛郎さん

小野田寛郎さんが91歳で亡くなられた。

小野田さんの著書、たった一人の三十年戦争は実に面白い本で、シンガポールに住んでいるとき、貪り読んだ。帰国して、東京の佃に住むようになると、小野田さんが近所に住んでいることを知った。ブラジルから帰国されたのか?地元の住吉神社の奉名板にはいつも小野田さんの名前があった。こんなにご近所なのだからいつかお姿が拝見できるかもと期待していたが、その機会もないまま逝ってしまわれた。

写真や映像で見る小野田さんの晩年の顔は希有な美しさである。

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曇りがなく晴れやかで、穏やかで、品があって。youtubeで見たインタビューでも、ずっと微笑みを絶やさず、実に柔らかい。1974年当時のあの姿、表情とは同じ人物とは思えないほど対極的だ。

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小野田さんといえば、30年間のルバング島でのサバイバル生活が一番有名だが、軍隊に入る前の中国での若き商社マン生活のやんちゃなエピソードもなかなか面白い。そして日本に51歳で帰国後、結婚してブラジルに移ってからの牧場主としての人生も濃い。91年の生涯で、3つも4つもの違う人生を生きた人なのだ。

小野田さんの生き方で私がすごいと思うのは、帰国後、浦島太郎の境遇に同情して全国から集まった見舞金をすべて靖国神社に寄付してしまい、わずか1年足らずでブラジルに移住し、ゼロから牧場経営を始めるところだ。

働き盛りの21歳から51歳までの人生の空白はあまりに大きい。国のために人生を無駄にしたのだから、残りの人生は国の世話になって当然だろう。日本にいたら、皆がチヤホヤしてくれただろうし、頭もいい人だから、知名度を利用して講演や著述で余生を送るか、あるいは政治家に転身することなども可能だったはずだ。

だが、小野田さんはそうしなかった。「あの戦争の小野田さん。。。」と言われ続け、過去の象徴になるのがイヤだったのだ。だから、あえて日本を捨て、新天地で新しい事業をはじめ、新たな人間関係をゼロから築き、新たなアイデンティティを得ることを選んだ。そしてルソン島での30年と同じくらいの時間とエネルギーをかけて、学習し、働き、家庭を築き、新しく知り合った人々と交わりながら前半生と全く異なる人生を築き上げた。

さらにブラジルの牧場事業が軌道に乗り始めると、小野田さんは日本とブラジルを往復し、福島県に自然塾を開いて日本の子供たちのために生き抜く力を教えることを最晩年のライフワークとした。

新天地ブラジルで事業を成功させることは、「人生をジャングルで失った男」で終わりたくない小野田さんにとって絶対成功させなければならない目標であり、賭けだっただろう。一方、次世代の日本人である子供たちに自らの経験を伝えることもまた、子供がいないまま老いる小野田さんにとって、ブラジルの事業とは全く別の観点から意味と充足感が感じられる仕事だったに違いない。自然塾を通じたふれあいを通じて、帰国直後に日本社会に感じた違和感、孤独感と断絶感も徐々に癒され、最晩年には敗戦日本のその後の歩みや戦後の日本人のあり方も穏やかに受け入れられるようになったのではないだろうか。こうした歩みすべてが80代の小野田さんの穏やかで美しい顔を作ったのだと思う。

小野田さんは与えられた運命に不平も不満も言わない。未来を見つめ、決して過去は振り返らない。自立心が強く他人の同情を嫌う。神仏に感謝はしても、お願いはしない。目標の達成に鉄の意思を持つ。

過去の人生が無駄になるかならないかは、今と未来の生き方で決まるということを小野田さんは教えてくれる。

ルバング島から帰国した小野田さんに与えられた長くて健康な後半生は、神様からの素晴らしい贈り物。穏やかな最晩年を過ごしたこの佃の町で小野田さんは何を見ていたのだろう。

勇気をくれた小野田さん、ありがとう。安らかにお眠りください。

 

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