多様性を捨てる

現在、わが家のからしは、日本のものと、アメリカのものと、フランスのものの3種類。

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日本のからしは、おでんやかたやきそばに。

アメリカのからしは、ホットドッグに。

フランスのからしは、ポトフやステーキに。

こうした使い分けは多分、多くの家庭で当たり前になっている。それが証拠に、月島の小さなスーパーでも、いすみのスーパーでも、最低、この3種類のからしが売っている。成城石井やデパートに行けば、さらに沢山のからしがある。粒からしやら、赤いからしやら。

からしだけではない。スーパーの調味料の品揃えはものすごい。砂糖、醤油や塩、酢、味噌の種類は数限りない。山椒、カンズリ、柚子胡椒、七味唐辛子にワサビ、紅ショウガ、福神漬け、青のり、粉かつおぶし。ヨーロッパ、インド、中国、東南アジアのスパイスや乾燥ハーブ。マヨネーズ、ケチャップ、ウスターソースの種類も多様。豆板醤に、甜麺醤に、豆豉に、コチジャン。ずらりと並んだドレッシングの瓶。珍しいところでは、韓国のダシダから、アラビアのデーツシロップまで。

いつ頃から、日本では自宅にからし3種類が当たり前になったんだろう?

チベット人のお宅にうかがったとき、どんな料理にも自家製のチリとニンニクと油を混ぜた調味料一本ヤリだった。アメリカ人の家でも、フランス人の家でも、私の知る限り、からしは一種類しかなかった。

我が家の調味料。和洋中+エスニック系のものを全部足したら、もしかして100種類以上あるかもしれない。

食だけではない。50年近く生きてくると、衣もすごいことになってくる。

和服は下着から履物に至るまで洋服とは相容れないシステムだから、洋服と和服、両方持つと、持ち物の数も仕舞う場所も2倍になるのはまあ仕方ない。

でも、着回しが効くはずの洋服も、過去の生活の変遷を反映し、地質のように異質な「系統」の服が積み上がっている。

キャリア風、主婦の同窓会風、街着、スポーツウェア、それにパーティー用やエスニック風。最近はこれに農作業服も加わった。これらの異なる「系統」のファッションには、それぞれ異なる系統の靴、小物、アクセサリーが付いてくる。

振り返ってみれば、多様な食文化やファッション、新たな知識や情報、変化や多様性は、バブル世代の私がこれまでの人生でとりわけ強く希求してきたもの、もしかして、一番強く求めてきたものかもしれない。

多様性は、豊かさ、生活の質とほぼ同義になっている。

アメリカン•ホットドッグにはアメリカ製の缶詰ソーセージに甘酸っぱいアメリカン・マスタードをきちんと合わせたい。でも、魚肉ソーセージに和からしの昭和風ホットドッグもたまには食べたい。ローリエを使った本格ボトフには必ずディジョンのフレンチ・マスタードを! もちろん、フランス風のサラダのドレッシングにはバルサミコ酢、エクストラバージンのオリーブオイル、フレンチ•マスタード。米酢、サラダオイル、和からしは和風ドレッシング用。

毎日の食事の「系統」をローテーションする。違う調味料と違う食器を使い分け、気分によって異なる文化の食のシステムを行き来すること。

そういう快感や喜びは、キャリア風、奥様風、都会風、田舎風、エスニック風、和服など、いろいろなシチュエーションでいろいろなファッションを楽しむことにもつながる。異なるファッションに身を包むからこそ、複数の異なる人間関係が楽しめるし、別の人格を演出できる。

都会で生まれ育ったこうした私たちの世代の「多様性=豊かさ」のどん欲な希求、好奇心、実践が、今日の日本の文化状況や生活様式を生み、食や衣の充実した品揃えにつながり、消費経済を支えてきたことは間違いない。

ところが、最近、モノや知識の多様性に対するどん欲さは最近、とうとう息切れ気味になってきた。50歳を目前に控え、持ち物や生活、関心の対象を絞り込んでいく必要を真剣に感じている。

絞り込まないまでも、少なくとも、これ以上、増やすことは控えたいと思うようになった。3種類以上のからしは要らない。半年間で使い切れないような調味料——たとえば、八角、ナンプラー、タマリンドやマスタードシード——はもう要らない。どうしてもエスニックが食べたくなったら、外食すれば良い。

オフィスで映えるセオリーやトゥモローランドのシンプルなキャリア服も、もう要らない。元の会社の人と会うからといってキャリア風の服を着る必要はない。キャリア風の自分を演出する必要はない。

フランスの雑誌や新聞ももう、読まなくていい。もしかしたらいつか役に立つかもしれないような知識はもう溜め込まない。過去に人生の一部だったものを、今の人生に留まり続けるさせる必然性はない。

捨てるのは寂しい。でも、正午を過ぎて人生残り時間が少なくなり日が陰り始めれば、どれだけ頑張っても、所詮、過去に獲得した多様性は指の間からこぼれ落ちていくのだ。

断捨離して生活を単純化していくことは、自由の残り香を少しずつ捨てていくことでもある。生活が多様になり続け、持ち物が増え続ければ、これからも自由は増え続けるように感じられる。でも、それは幻想だ。

一着の袈裟、一足の靴、一杯の椀だけしか持たず、一生、同じモノを食べ、同じ経典を何度も読み返し、仏法に精進する僧侶。そんな心境からは正直、まだはるかに遠い。それでも俗世に生きる私も「死」という唯一絶対的なシンプルな一点に向かっているのは僧侶と同じだ。

生まれたときはシンプルに生まれてきた。知識もモノも人間関係もなかった。自由や多様性を獲得したのは社会での活動を通じてだ。だから、社会での活動がピークアウトすれば、徐々に多様性が消え、生活がシンプルに戻っていくのが自然の理なのだ。

できれば、死ぬ直前の食器棚のからしは一種類にしたい。死んだ私の100種類以上の調味料を誰かに捨ててもらうことを想像するのは、あまり気分の良いものじゃない。。。

 

 

 

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多様性を捨てる」への2件のフィードバック

  1. てるぷに

    すごーく共感しました。
    年に1回しか登場しないスパイス(まだ香っているのか??と思うような)が一杯あります。
    そう、思い切って外食したらいいんですよね・・・そういう時は。

    返信
    1. n165033 投稿作成者

      そう、調味料は腐らないけど、古くなると悪くなっちゃうんですよね。半年で使いきれない調味料は買わないで、外食!

      返信

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