力仕事

これまで自分の「力」のなさを悔い、「力」が欲しいと思ったことは一度もなかった。

「力」とは権力や能力のことではなく、文字通り、重いモノを持ち上げたり動かしたりする筋肉のこと。

都会で生活している私はほとんど筋肉を使わない。というか、そもそも筋肉が重いモノを持ち上げたり、運んだりするためにあるということをあまり自覚していなかった。思えば長い時間をPCの前に座り、モノを読み、データを処理し、キーボードを叩きながら生活してきた。あらためて考えれば、PCのキーボードって驚くほど軽い。押すのに何の努力も要らない。プリントも簡単だ。そこには男女の違いも年齢の違いもなく、何の努力も要らないから、私は仕事の中で「力=筋肉」を意識したことはほぼ皆無だった。私だけではない。回りを見回せばほとんどの人は重いモノを持って動かすこととは無縁の仕事で金銭を得ている。いわゆる高付加価値の仕事になればなるほど、仕事で筋肉は意識されなくなる。人生と身体の遊離。

仕事だけではない。仕事を離れた日常生活でも、やはり重いものを持つ機会はない。最近、一番、重かったのは。。。もう10年ほど前、抱っこしていた息子くらいか。今どき、家電や調理用具は軽いし、サッシの窓やドアの開け閉めはスムーズ。家具だって什器だって重ければ宅配を頼める。筋肉が鈍っているから運動したいと思ったら、歩くか、走るか、ジムに行く。

都会生活で「疲れた」というとき、それは力を使い過ぎて疲れることではなくて、寝不足や食べ過ぎ、精神的疲労のことだ。そして、都会の生活で力を使わないで済んでいることを感謝する機会はほとんどない。

さもなくば、ボルダリングでもするとか!http://akikoshimoyama.com/wordpress/wp-admin/post.php?post=1739&action=edit

一番、筋肉を使えるスポーツはボルダリングかな?,  http://akikoshimoyama.com/wordpress/wp-admin/post.php?post=1739&action=edit

そんな長年の都会生活で筋肉の衰え切った火星人の私。いすみの古民家改修でかなり途方に暮れている。

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というのも、私が頼みたいような小規模で低予算の外構工事やリフォームはどの業者もなかなかやりたがらない。そして、どんな改修工事でも、完全に業者に外注せずに多少でも自分の手でやろうと思えば、どうしても重いモノの持ち運びというプロセスがほぼ必ず発生する。だから古民家改修の大前提は、最低20キロ程度のモノを持ち運べるだけの基礎体力と筋肉なのだが、こうした当たり前のことに都会の生活では思い至らない!

木板、漆喰、土、石、砂利、セメント、タイル、そして電動工具。これらに共通する特徴は、全て重いこと。

自動車、台車、手押し車などの道具を駆使しても、都会と違ってバリアーフリーでない場所だらけだから、手足を使ってモノを運ぶ過程を全てスキップすることはできない。ピザ釜を作るにしても、花壇を作るにしても、そもそもモルタルの材料の20キロの砂袋を持ち上げてトロ船に入れられなければ何も始まらない!

これは「民家の学校」の土壁塗り

これは「民家の学校」の土壁塗り。かき混ぜるのも大変

畑仕事も然り。雑草抜きや種まき、植え替え、支柱立てくらいまでなら筋肉はあまり要らないだろう。だが鍬で土を耕す、土壌改良のための土を作る、木を切る、切った枝を薪にする、といったことには良質な筋肉と持久力がないといけない。

刈払機で草を刈る、古木の釘を抜く、家の雨戸の開け閉めをする、土間から居間への段差を行き来する、梯子や養生シートを出したり片付ける——そうした普通の日常生活の基本動作だけでも、やはり田舎暮らしには都会で鈍りきっている力や要領が必要となってくる。

都会で鈍った私のヘナチョコ、木偶の棒ぶりと、地元のお年寄りや大工や職人さんといった人たちの仕事ぶり、柔軟で強靭な身体はあまりに対照的で、とても同じ手足がついた人間とは思えない。長年、身体を使って生きてきた人たちは単に筋肉があって力持ちなだけではない。なかなか動かないモノを動かそうとする時の辛抱強さ、細かい作業での繊細さ、丁寧さ、呼吸など、その身体は野生動物を思わせる鋭敏さに溢れている。

とはいえ、私は所詮、頭脳労働ばかりしてきた年増の女。この私がこの年齢で敢えて慣れないことに取り組もうとしているって、もしかして痛い?

現にいすみの家の前の持ち主だった70代の女性。自然もDIYも大好きで庭の相当部分を10年間、実質一人で管理していたが、腰痛でどうにも庭仕事を続けられなくなり、泣く泣くこの家を手放して都会に帰って行かれたのだった。

都会は人々の分業が極度に進んだ世界だ。力仕事は知らない間に完全に他人にお任せできちゃう。筋肉がなくても自然への対応力が弱くても人工的な環境の中で生きていけるから、(大家族制度がなくなった今)本来、体力のない老人には田舎より都会が合っていると思う。

佃リバーシティのインフラの整ったエントランス。ここまで綺麗な外構を作るのに、どれだけの「力」が必要だったことか。

東京都中央区佃リバーシティのインフラの整ったエントランス。ここまで綺麗な外観を作るのに、どれだけの「力」が必要だったか。私たちは費やされた「お金」は覚えているが、「力」は忘れてしまう

その意味でもう若くない私の田舎暮らしはシビアである。過度に野心的な目標は戒められるべきだろう。できれば体力が衰える前に、庭の外構工事など基礎部分は作っておきたいと思う。それでも、どんなに頑張っても寄る年波には叶わず、冬の寒さや雨戸の開け閉め、虫との戦いにいつか根を上げて快適な東京に逃げ帰る老女の自分の姿を想像してダークになることも。

あるいは、そんな風に先走ること自体が都会人的なのかもしれない。

すでに、いすみの家は長年の東京暮らしやこれまでの生き方を見直す機会を与えてくれている。恐らくこれからもそこで沢山の経験ができるだろう。いすみの家が私たちを待ってくれていることに感謝しつつ、今はできる力仕事をやりながら、行ったり来たりの生活を楽しもう。

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