似非エコ

スーパーでレジ袋を悪者扱いし、もらう人に罪悪感を与え、もらわない人に「私って地球に優しい」と自己満足を与える風潮って本当に嫌い。

私は2回に1回は「レジ袋、要らない」と答えるが、残りの1回はたとえエコバッグを持っているときでもレジ袋をもらう。

だって必要なんだもん。ゴミ出しに。

東京都中央区は燃えるゴミには指定のゴミ袋があるが、プラスチックゴミや燃えないゴミ用の容れものは自由。ビンやカンはそのまま出して、新聞紙は紐で縛って出せばいい。だが、大半の食物を包んでいるプラスチック•フィルムや発砲スチロール、菓子袋といったふわふわする雑多なゴミーー実はそれらが最大のゴミ品目なのだがーーはレジ袋に入れる以外に捨て方が分からない。というわけで、私には少なくとも一週間に5枚程度のレジ袋が必要であり、スーパーで入手できなければ買うしかない。

おそらくご近所のマンション世帯全部の事情は同じだから、エコバッグ持参の報酬に与えられるわずか2円の割引によってスーパーからレジ袋が消える気配は一向にない。

レジ袋が悪者だとしたら、それと同等か、それ以上に無駄で環境に悪く、しかも効用が低いものは沢山ある。

小分けした肉が載った発砲スチロールのトレーや贈答品の菓子の過剰包装。ワインやジャムをデパートや成城石井なんかで買うとついてくる発砲スチロール製の衣のようなもの。割れ物を買ったら割れないように注意して歩けばいいわけだし、どうしても危ない場合は持参のハンカチや風呂敷で包めばいいのだ。

アマゾンなどで購入した商品を幾重にも包む梱包や段ボールも悪者だ。ユーザーがネットで注文した商品を近所の書店に取りにいき、そこで支払うというビジネスがスタートするとどこかで見た。もし、これが実現したら私はアマゾンからシフトするだろう。近所の本屋に商品を取りにいって無包装の本を受け取る手間の方が、梱包した段ボールを自宅で受け取り、開けて畳み、無駄な送り状やら広告やらを毎回分別して捨てる手間よりはるかに小さいからだ。

商品を包む段ボールや梱包材やプラスチックフィルターや発砲スチロールのトレーがなくならない限り、私たちの出すゴミの量は決して減らない。だが最終消費者である個人がゴミ減らしに向けて出来ることは所詮、限られている。変わらなければならないのはゴミを作る側、商品を売る側とそれを規制する国や地方自治体だ。

さすがにコンピューターや陶器など、破損したら価値がなくなるものの運搬には段ボールと発砲スチロールが必要かもしれない。また贈答用の高級アクセサリーのようなエリアでは永遠に過剰包装を追放できないかもしれない。でも一冊の本の配送には段ボールは要らない。コーンフレークやチョコレートなどの日用品が美しい箱で覆われている必要はない。魚や肉はトレーに載っていなくても良い。(おそらく風呂敷の名残りで)贈答品を紙やプラスチックフィルムで幾重にも包む日本の慣習は非合理的で倒錯しているように感じられる。

スリランカの田舎で体験した石油化学系素材のゴミが全く出ない生活。深川江戸博物館で疑似体験した江戸の人々のつましい衣食住。大量のゴミを出す私たちはそこから異様なくらいかけ離れている。だが、エコはゴミが出ない生活を送ることだとしたら、非力な個人は所詮、似非エコにしかなれないのだ。それなのに非力な人たちに「エコしましょう」と呼びかける人たちが嫌い。問題は個人ではなくシステムにあるのに!

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