【映画評】永遠のゼロ

年始に「永遠のゼロ」を鑑賞した。

多くの人が「涙が止まらなかった」と絶賛するこの映画なのに、イヤな感じを受けた。ヒーローを美化するためにデフォルメされた箇所をイヤらしく感じたから。フィクションだからデフォルメは必要かもしれない。でも、この映画はそれが一本調子で安っぽく、「感動」を呼ぶために総動員され、甘ったるい感傷的な音楽をバックに見る人に思考を停止して涙を流すよう強いるのだ。安手のテレビ・コマーシャルのような。

おそらく、この映画を見て感動するのは日本人、それもあまり論理思考をしない人たちで、韓国や中国やアメリカやフランスでこの映画が配給されてヒットすることは絶対にないだろう。ハリウッド映画と同じ単純なヒーロー物語なのに、ハリウッド映画ほどにどこの誰が見ても感情移入できる普遍性とロジックの厚みを求める努力に欠けている。

1 太平洋戦争当時、勝つことより、生き残って家族に会うことを最重要視し、それを公言する「マイホームパパ」が果たして零戦乗りになり、他人を指導する立場に「出世」できたか?

主人公の宮部久蔵は命を大切にする、合理性を重視する、無駄死にを諫める、家族を大切にする。戦前の日本や軍隊組織にいた人が、洗脳され、気合いや精神ばかり偏重する「軍国主義者」ばかりだったわけではないという事実そのものがこの映画のキモなのだろう。もちろん、それは真実だろう。だが、そんな本音を言ったら戦闘組織が崩壊するから誰も個人的な状況を前面には出せないということもまた、その時代の真実だったと思う。戦争で戦いながら、「家族のために生きたい」と周囲に本音を公言し、戦闘能力が高いにも係わらず、戦闘現場で戦闘を避けるような人物が果たして零戦の搭乗員として前線で活躍できただろうか? 現在の企業社会の現実から類推すれば、あるいは軍隊にも本音むき出しの「変人」はいたかもしれない。だが、組織で他人を指導する立場には就けなかったことは間違いないし、そうした人物は恐らく後方任務に就いていただろう。

2 戦死した軍人の家族は路頭に迷ったか?

職業軍人だった宮部久蔵は、果たして「家族が路頭に迷うこと」を心配して死んでいっただろうか?そして軍人の妻子は戦後の日本で本当に路頭に迷ったのか? もちろん、宮部は死に際して未亡人となる妻や父のない娘が気がかりだったろう。だが、少なくとも軍人恩給の最低限の生活保障も疑うほどに国家システムを信用しない人が果たして特攻に志願できただろうか? また戦前の大家族制度を前提とすれば、たとえ国家の庇護が得られなかったとしても戦死軍人の妻には、周囲の支援が全くなかっただろうか? 戦前の軍人の妻は、地縁、血縁がこの映画のように希薄で、夫の部下だった見ず知らずの男に頼らなければならないほどに孤独だったろうか? あるいは空襲で宮部や妻の親戚は全員死んでしまったのか? まるで今日の都市の核家族のような主人公の家庭や家族間にリアル感がない。

3 日本の若者はチャラチャラして特攻隊員をバカにしている?

映画の中盤、遊びに明け暮れ、過去の日本を「ダサい」と考え、「真摯に」戦争を知ろうとする軽薄な若者たちが登場する。平和呆けで享楽的、恩知らずな現代日本と真摯な特攻隊員の対比を強調し、観客に罪悪感を植え付けるために。。。。だが、どんな国の、どんな世代の、どんな人も、一体、合コンの初対面の女性の前で、文脈なしに戦争や特攻隊の話題をするだろうか。不自然なのは、平和な現代を生きる男女ではない。合コンで文脈なく、突然、自分がのめり込んでいる特攻隊の話をしたがる未熟な青年、三浦春馬の方だ。

4 戦死した軍人の未亡人と結婚した部下はその後、自分の子どもを作らない?

宮部久蔵の部下だった、夏八木勲演じる佐伯賢一郎は自分を救ってくれた上司、宮部久蔵の死後、その未亡人と結婚する設定。戦死者の未亡人と帰還軍人との再婚そのものは、実際に多くあったものだろう。だが宮部の遺児の吹雪ジュン以外には再婚した2人のあいだには子どもは出来なかった設定になっている。死者、主人公宮部のヒーロー性を高める狙いでそう設定されたのだろう。だが未亡人の再婚年齢の低さ、当時の「生めや殖やせや」の風潮、そして初婚である佐伯個人の人生の開花という点では、その後、二人にはどんどん、子どもが出来たと考える方が自然ではないか。これも戦死者や戦争を乗り越えることで戦後を築き上げてきた日本のリアルにそぐわない。

5 戦争を経験し、それについて多くを語らない人は、単にそれが「悲惨」だったからか?

戦争体験者の中には戦争について多く語らなかった人がいたのは事実だと思う。だがそれは、この映画に登場するような、「(軍国主義に洗脳されず、戦後を先取りした)正しい考え方をし」、「(私たちと同じ価値観の)家族思い」だったのに、「(勇敢にも)国のために命を捨てた」、非の打ち所のないヒーロー宮部久蔵の部下や遺族たちではないと思う。そうした人物を真に尊敬し、素晴らしいと感じていた人は、その事実を次世代に語り継ぎたいという意思を持ったはずだし、話す義務も感じただろう。なぜ、語らない人は、語らなかったのか。それは戦争中のリアルの中には、後世の人を感動させるような物語とはかけ離れた不条理、みじめさ、曖昧さ、複雑な体験や心理状況があり、それを忘れなければ前に進めないような状況があったからだと思う。そうした個人の体験の持つ曖昧さ、後ろめたさ、不条理さを綺麗に取り除いて安直なヒロイズムにロンダリングしたのがこの映画のように見える。

生々しい戦争体験者が殆どいなくなったからこそ、現在の日本は、歴史に対するより冷静でリアルな過去の分析や内省、検証、総決算が可能になっている。なのに、リアルの持つ微妙な機微を全て切り捨て、思考停止してエモーショナルに民族の過去を肯定し、無理やり太平洋戦争と戦後日本の価値観を接木するような安っぽい物語が2014年のお正月、日本で大ヒット。

安倍首相は大晦日にこの映画を鑑賞して「感動しました」と声を詰まらせたという。本当だとしたら、信じられない。こんなにご都合主義の薄っぺらいメロドラマに感動するなんて。あるいは安倍政権の意向に合わせて作られた国策映画なのか。電通、日経新聞、朝日新聞。。。あらゆるマスコミが製作に関与していることも、不気味な感じがする。

 

 

 

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