プチ瞑想

身体に良いのがエキササイズなら、心に良いのは瞑想。

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仏教やヨーガの本を読んで35歳を過ぎた頃から薄々そう思っていた。でも身体への効果が顕著なエクササイズと違って、瞑想は何だか「時間の無駄」な気がしていたのも事実だ。

隠遁していない普通の生活を送る私たちが瞑想を生活に取り入れるには、「効率的な時間の使い方」についてのこれまでの価値観を一旦、ひっくり返す必要がある。

私たちは新聞を読んで情報収集したり、お金を稼いだり、ソーシャルしたり、勉強して賢くなったり、健康を増進したり、資格取得したり、カロリーを消費したり、旅行したり、そうしたことに時間を使うのが正しい時間の使い方と思っている。

瞑想している時間はそのいずれも出来ない。瞑想している時間は、経済活動することも、勉強して賢くなることも、カロリーを消費することも、人々とソーシャルして楽しくなることも出来ない。家事も出来ないし、他人の世話も出来ない。目先の功利と瞑想は背反する。

というわけで、葛藤の末に私が毎日の瞑想に与えた時間は1日20分。

たった20分なのだから、と覚悟を決めてちゃんと座る。

瞑想中の心は猿のように動き回る。なにも強迫観念やどろどろと醜い欲望や怒りにまみれた心が浮かび上がるわけではない。目を閉じて座っている間に心に浮かぶ内容は「前日の情報の反芻」が大半だ。おしゃべりしている自分や他人の声。前日の知人とのランチの会話の繰り返し。その会話から思いが派生して突然、広がるシンガポールとマーライオンの光景。次に思い出すのは、前日の夕食時の子供との会話や夜9時のテレビニュースの内容。

それはコンピューターのメモリーに過去のキャッシュの情報が残っているのと似ている。「ああ、私の脳ってコンピューターみたい」と思う。こうした近過去の体験のフラッシュバックに、「今日、夜ご飯、何作ろうか」、「銀行でお金下ろさないと」、「今日中にはビーズを新しく注文しないと」などの近未来の”to do list”が交錯する。そしてto do listには、未来の不確実性に対するかすかな不安や恐れ、緊張、不快感が伴う。それらを感じつつ、再び今の呼吸に意識を戻して行く。

脳が覚醒した状態で五感による外部からの情報の刺激を遮断する瞑想には、コンピューターのメモリーを解放する効能があるのだろう。20分後に目を開けるとすっきりと再チャージされた自分を発見する。

瞑想を始めてから、飲んでストレス解消したい、人と会って話したいという気持ちが減った。また本の乱読も減った。昔は寝る前に本を読んでいたが、そうすると瞑想中に必ず本の情報が無秩序に浮かび上がってくるから読むのを止めた。何でも、少しゆっくりやろうと思うようになった。

今のところ、この20分の瞑想を1時間、2時間、5時間には増やせないし、増やしたいとは思わない。でも、逆に、20分の瞑想の時間が勿体ないほど、魅力的な時間の使い方が他にあるとも思えないし、今以上に外部の刺激を増やすことに意味があるとも思えない。

というわけで、私の日常生活の一部になりつつあるプチ瞑想。この20分すら惜しいようなラットレースな生活にはもう戻るまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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