フェースブックと他人の承認

中学校時代、授業より休み時間が苦手だった。

<社交=ソーシャライジング>が苦手だったのだ。

ソーシャライジングとは、沢山の人と、「当たり障りのない」話題を軽く楽しく話して、コミュニケーションを図ることだ。

socializing

当たり障りがない、とは、集団の価値観の範囲内の一定の規範に則っっているという意味だ。

家族より大きな集団で当たり障りのない会話をするのは簡単ではない。

当時、中学生の私が所属していたクラスの価値観は、「バカにするべき先生と一目置くべき先生」の違いや、「靴下のクールなはき方とダサいはき方」「可愛い髪型と可愛くない髪型」の共通認識だったり、「スヌーピーはクールだけど、キティちゃんはダサい」という決まり事だったりした。そうした感覚は、だいたいボスの一言で決まり、そのグループに属する女子たちに共有されたものだったが、何がinで何がoutかは何かの拍子に簡単に変転する流動的なものだった。”What’s in?”というその場の空気が読めないと、一言も発言出来ないのだ。「バカにするべき」先生を、「私、この先生好き~」などと言ってしまったらまずいし、皆が可愛いと思っているモノを「私これ嫌い~」と言ったら、白い目で見られる。

一体、今、何が正しいのか?自分の考え方が皆の価値観から外れていないだろうか。間違ってはいけない。皆に受けることを言って、皆から「同じ仲間」って思ってもらわなきゃらない。私は、万一、間違ってしまったらどのような態度でごまかそうかということまで考えてから発言した。

集団の価値観を外してはいけないだけではない。「そもそも自分には現在、どの程度の発言が許されているのか」という自分の「集団上の立ち位置」を読むことも忘れてはいけなかった。出過ぎてもいけないし、引っ込み過ぎてもいけない。絶妙なタイミングで絶妙な発言をしようとしていつも緊張していた。

立ち振る舞いがうまくいって、自分が承認された、皆と楽しく過ごせたと思えた日は幸せで、同じグループ(カースト?)のリーダーや仲間に冷たい目で見られたと思った日は不幸だった。不幸と幸福は交互にやってきて、つかの間の幸福にも、いつ崩れる分からない不安が付きまとった。

絶えず集団の空気に気を遣っていた私は、そのおかげで苛められっ子カーストに堕ちないで済んだ。でも、集団の中で、本当に楽しいと感じたことはなかった。他人に承認されても、それが自分自身らしいと感じたこともなかった。

集団の圧力にほとほと疲れてしまって、休み時間を誰にも会いたくなくて、トイレの中で過ごした日もあった。自分が透明人間になればいいと思った日もあった。

今考えると、こうした自意識過剰で哀れな中学生の私は思春期の「社会化」の過程を通り過ぎていたのだと思う。自分の存在を疑わず無邪気だった子供は、中学生になると自分の姿を鏡に映し出して自我を見出し、そうした自分の社会の中での立ち位置を意識するようになる。社会に居場所を見つけようとしてもがき、他人からの承認に苦しむ。社会の結束を高め、自己確認をするために、「敵」や「自分たちより下」の人々を見つけ出す。中学校や高校の陰惨ないじめやスクールカーストの問題は、個人の社会化の過程と表裏一体のものである。

幸い、高校になり、大学になると、ふとしたきっかけで自然な振る舞いが出来るようになり、リラックスして付き合える少数の友人が出来た。集団に溶け込まなければならない、自分を殺して他人に合わせなければならないという圧力は今も完全になくなったわけではないが、中学時代と比べるとずっと相対的だし、特定の集団での承認を求める感情も薄くなっている。こんな私も、会社の同僚に当たり障りなく、「その携帯ストラップ可愛いね!」と話しかけて喜ばせたり、初対面の人と適当な与太話ができる「大人」になったのだ。

ところがフェースブックの「いいね!」は、不思議とあの中学時代の苦しみを思い起こさせる。他人の言動に無条件に賛同と好意を表わすよう強制させられ、監視される、あの不快な気分を。

ソーシャルメディアというだけあって、フェースブックはもともと大学生がソーシャライズする手段として開発されたものだ。だから、もともとパーティーやソーシャライジングが苦手な人には相性が悪いものなのである。フェースブックに極めてアクティブな人は、リアルの世界でも社交が好きな人ばかりで、社交下手で引っ込み事案な人でフェースブックが好きな人はいない。

フェースブックの投稿には、中学時代の休み時間にグループの会話を切り出すときのように、絶妙に空気を読むことが求められる。それは他人に承認を求めるものだから、主張であれ事実であれ、シリアスで人々を沈み込ませるものであってはいけないし、自分の生活を一方的に自慢するものであってもいけない。私生活をさらけ出しすぎてもいけないし、ビジネスライク過ぎてもいけない。長すぎても、短すぎてもいけない。まるでパーティーや中学の休み時間の時の会話のような、当たり障りのなさを狙った絶妙なバランスとセンスが必要なのだ。

投稿する側だけではない。「いいね!」を押す側にも、ソーシャライジングのスキルと耐性が必要だ。「私、スヌーピー大好き!」と言うのが赤の他人なら無視する。でも、それが友人だと、たとえスヌーピーが好きでなくても「いいね!」を押す。「いいね!」というボタンの意味は、「私もスヌーピーが好き」という意味ではなく、「『スヌーピーを好き!』だというあなたを私は承認します」という、ソーシャライジングだからだ。得られた「いいね!」の数は、「他人の承認度」の定量評価に他ならない。

人間の幸せが他人からの承認の量によって決まるのであれば、幸福度は、フェースブックの「いいね!」の数によって決まることになる。

人間は社会でしか生きられないから、子供は大人になる時に他人の承認と社会化が必要であり、社交のない社会はありえない。でも、過度のソーシャライジングと社会への同化に掛かる圧力は個人を押しつぶす。フェースブックを突然、辞める人が今、増えているというが、その感覚はもしかして、休み時間、社会の圧力に疲れ果ててトイレに篭り続けようとした中学生の私の気分と似ているのではないかと思う。

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