ダラムサラで良かったことは、チベット語のシャワーが浴びられたこと。
といっても英語が十分通じるし、なんといってもそこはインドだから、チベット人コミュニティを少しでも離れるとヒンディー語が優勢になる。ここに住むチベット人の大半は、チベット語、英語、ヒンディー語のトリリンガルだ。
というわけで、実際には朝から晩までチベット語に浸りきるといった状況ではなかったものの、少なくとも、そこにチベット語で生き生きと展開される世界が存在し、自分がそれを垣間見ているという実感はあった。1週間、世界中から集まった人々と共に、ライブラリーの基礎クラスで初歩の発音と綴りを復習することが出来た。これは、ともすれば日本で失われがちだった、チベット語学習の動機付けを取り戻す上では最高の経験だった。
チベット語を学ぶ動機が失われがちなのは、それがあまりに使い途の乏しい非実用的な言語である反面、語学習得が根気の要る遅々としたプロセスだからだ。
こうした動機の喪失は、世界のマイナー言語を自らの興味と関心に基づいて「趣味」として学ぶ全ての人が陥り易いリスクだろう。何のためにコストと時間をかけて勉強しているのか、自分でも分からなくなってしまう時があるのだ。
愛用のMac PCの「環境設定」で「言語と地域」を選択すると、160あまりの言語名が現れる。70億人の人類が、少なくとも、これだけの別の言語で私のiMacと同じ、アップル社のコンピューターのキーボードを叩いていると考えるとクラクラしてくる。
チベット語を母語とする人は現在、世界で470万人、世界108位の言語。これを第二言語とする人はほとんどおらず、公用語とする国もないという点で、チベット語は超マイナー言語といえる。
それでも、他のマイナー言語と比べると、チベット語を学ぼうという外国人は多いはず。それは、チベット語がチベット仏教を学ぶための入り口としての言葉だからだ。聖書を学ぶ人がヘブライ語を学び、イスラームを学ぶ人がアラビア語を学ぶように、仏教を学ぶ多くの外国人がチベット語を学んでいる。
私も今回、ダラムサラで仏教講座を聴講し、チベット語でお経が唱えられるようになったらいい、仏教用語がチベット語で理解できたらいいと強く思うようになった。
言うは易し、行うは難し。チベット語は母音の発音が日本語よりずっと豊かで、日本語にない音が沢山ある。中国語のような声調もある。そして、チベット語の表記はかなり難易度が高い。チベット文字は表音文字で、漢字と比べるとずっと数も少ないのだが、発音と綴りが相当、乖離していて、書いてあるものを読むところまで行くことのハードルが極めて高い。あらゆる語学と同じで、ひたすら毎日コツコツと積み上げるのが上達のコツだとは分かるのだが、最大の課題は時間の捻出とモチベーションの維持なのである(チベット語にも英語のようにTOEFLや英検があればいいのに。。。。)
かれこれ2年ほども「ワタシ、ニホンジンデス」のレベルで止まっている私のチベット語。
初級レベルを超えて行くためにはダラムサラで1年くらいエマージョン•プログラムに浸りたいのだが、残念ながらそういうわけにも行かない。東京では、週に1回、2時間の授業を続けるだけで精一杯。
少なくとも、他の言語には浮気せず、ゆっくり地道に勉強を続けたいと思う。
来年の今ごろ、そして10年後、私にはチベット語でどんな世界が見えているのだろうか。。。