ダライ・ラマ法王の横浜講演

今年2度目のダライ・ラマ法王の来日。最後の横浜講演に行きました。

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法王の講演はだいたいスタイルが似ています。満場の拍手の中、法王が登場。法王が英語で「思いやり」「内面の平和」「世俗の倫理」などについてトークします。その後、「私に質問はありますか?」という法王の言葉を受けて、質疑応答セッションに移ります。法王はだいたい10〜20の質問に答え、講演終了予定時間をだいたい30分ほどオーバーします。

私はこの質疑応答セッションがいつも苦手でした。

なぜなら。。。列に並んだ人々のランダムな質問の内容があまりにシュールだからです。

質問者「どうやったら悟れますか?」

私の心:「アホっ!そんな質問する時間があれば、修行しろ」

質問者「日本の原子力についてどう思いますか?」

私の心:「どう思うって何さ!政治的発言はタブーだよ」

質問者;「私はA社に勤めていまして、そこに愚かな上司がいて、くだらない会議があって、つらつら。。。。私はこうした状況でどう立ち振る舞ったら良いのでしょうか?」

私の心;「てか、お前の具体的状況がよくわかんねー」

 

こんな感じです。

お花畑系質問に加え、たまに超絶難解な仏教哲学の質問をしてくるやからもいます。

その言葉も韓国語やモンゴル語だったりします。それで会場のスタッフは通訳は質問者と法王と観客の意思疎通に大わらわです。

法王はこうしたシュール状況に慣れきっていて、どんな質問にも淡々と当意即妙に答えます。ですが、たまに外した答えをしてしまうこともあります。その原因は、ロストイントランスレーション(=翻訳で生じる意味の取り違え)の場合もあるし、法王自身が質問の文脈を十分に理解できない場合もあるようです。

論理が噛み合った対話を聞くことには知的快感がありますが、場の空気や回答者の立場を思いやらない自分勝手な質問、文脈が共有されないすれ違いの質疑応答には背中がむずがゆくなるような、船酔いするような気持ち悪さがあります。そういう質疑応答は、まるで昨日結成されたばかりの、未熟なミュージシャンの音程のずれたライブのバンド演奏を聞かされるようなものです。

下手な生演奏だったら名演奏のCDを聞く方がまし! 講演に行くより仏教の本を読んだ方がまし!

そんな風にも思いました。

でも、それは私の間違いだ気づきました。

どんな間違い?

企業業績を発表するアナリスト・ミーティングと法王猊下との質疑応答を混同する間違いです。

私はついつい、自分が生きてきた企業社会の物差しであらゆるモノを見てしまうんです。

アナリストミーティングの意義は、適切なレベルの質問に適切なレベルの回答を組み合わせ、噛み合った質疑応答をしてスムーズな意味の伝達を図ることです。

でも、法王の質疑応答セッションの真の意義は、法王に不特定多数の人が自分の言葉を直接ぶつけ、それに法王が直接答える、という行為そのものにあるのではないか。

そもそも質疑応答の言葉面の帳尻を合わせることにはあまり意味はないのに、そこに過剰な意味を求めているのは私だけかなと思ったのです。

質問者は自分の質問に法王から返事があるだけで嬉しい。噛み合っていたっていなくたってどうでもいい。法王に質問をし、それに答えてもらったという事実で至福の思いに満たされる。

なぜ、つじつまが合っていなくてもいいのでしょう?

それは法王が全ての苦しみを理解し、それを受け入れる聖性そのものだからであり、人は聖性と知的レベルで噛み合う必要はないからです。

聖性の体現者と言葉を交わす、それを見る、それに触ることは、聖性を信じる人にとって、どんな知的交流ももたらさない充実した一体感をもたらす。

法王はそれを知っているから、この質疑応答を続ける。

そうなのではないかと思いました。

私はこの10年、チベット関係のボランティアをしてきても、正直、どうしてもダライ・ラマ法王(His Holiness the Dalai Lama)の聖性=holinessの次元が理解できないできました。

私にとって、ダライ・ラマ法王は20世紀の世界史の生き証人、世界で活躍するセレブ、チベットの象徴でこそあれ、自分の救済を求める対象ではありませんでした。明朗でたくましくチャーミングなパーソナリティは魅力的で、立派な人格を尊敬するし、チベットに帰還していただきたいと思う反面、法王の「思いやりが大事です」みたいな言葉は使い古された、あんまり威力のない、退屈なものとも感じていました。

チベット人の「現人神信仰」を前近代的で遅れたもののように感じていました。そして、自国を失い、取り返せないまま老境にさしかかった無力な旧国家元首に理想を投影し、魂の救済を求めて群がる日本人、欧米人、中国人などの外国人の他力本願を、なんだかオーセンティックじゃないようにも感じてもいました。究極のリアリティに触れる方法を説く仏教の論理的側面に惹かれはしても、その儀式や迷信に包まれた信仰や救済の側面にはあまり興味が持てないできました。

法王自身ですら、人々に「勉強しろ。迷信や信仰に甘んじず、自分の頭で考えろ。私を盲信するな」と言っているから、他力本願じゃ駄目だと思ってきました。

でも、言葉にはパラドックスがある。言葉をそのまま信じちゃいけない。法王が「勉強しろ。迷信や信仰に甘んじ、自分の頭で考えろ。私を盲信するな」と言うのは、逆にありのままの人々の姿が「勉強せず、迷信や信仰に甘んじ、自分の頭で考えず、盲信している」からなのです。

多くの人々は勉強しません。ひたすら法王に会おうとします。会って触ろうとします。法王の触ったモノに触れようとします。聖性の物理的実在を信じ、聖性を顕現する法王に救済を求めます。

法王は「そんなの駄目だ」と言います。でも、口でそう言いながら、結局、そういう人々を愛し、許し、受け入れているのです。

なぜ許すのでしょうか。

あらゆる人が苦しみの中でもがいていることを誰よりも深く理解しているからです。高い立場からの人間の実存への理解に基づいて、一番低いレベルまで下りて来て、苦しむ、ありのままの人間を、責めず、嫌わず、批判せず、糾弾せず、高きも低きも全ての人を等しい慈悲の心で包んでいるからです。

そういう超越した存在を人は聖性と呼びます。

聖性から私たちに与えられるべきなのは、言葉の「意味」ではなく言葉そのものです。そして讃えるべきは、聖性の「効用」ではなく、聖性そのものなのです。

性急に「意味」や「効用」ばかり追い求めてラットレースしても、決して聖性に触ることはできない。私は長くそのことを理解できないできました。

ずっとそこあったのに密やかに隠れていた小さな花を見つけたような、不思議な気分の昨日の講演でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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