ダライ・ラマ法王のお兄さんの伝記

ダライ・ラマ14世のご両親は子沢山で、お母様は16人の子供を産みました。そのうち、成人まで育ったのは9人。下は、ご家族が

ダライ・ラマ法王のご家族。左からお母さん、長姉のツェリンドルマさん、町兄のトゥプテン・ジグメ・ノルブさん、次兄のギャロ・トゥンテュプさん、三兄のロブサン・サムテンさん、法王さま、妹のジェツン・ペマさん、弟のガリ・リンポチェ。1955年。
http://www.centraltibetanreliefcommittee.org/ctrc/brief-on-hhdl.html

下は2015年に刊行されたダライ・ラマ法王の次兄ギャロ・トゥンデュプ氏の自伝(アン・サーストン共著)である”The Noodle Maker of Kalimpong (カリンポンのヌードルメイカー)“のあらすじの抄訳です。本書の著者はダライ・ラマの2番目のお兄さんのギャロさんです。

この本を日本語で出版したくて、何社が出版社に持ち込んだのですが、出版不況の中、大著の出版はなかなか難しいようで。あらすじだけでもご紹介したく、アップしました。

ダライ・ラマ法王の生涯はとても数奇ですが、ご兄弟の人生もなかなかドラマチックです。そして、中国、インド、チベット、アメリカの戦後史はとても入り組んでいて複雑です。

ダライ・ラマ法王が3歳で転生認定された後、家族はまるごと故郷から首都ラサに移動し、貴族に叙せられます。ギャロさんはラサの貴族社会で少年時代を送ったあと、当時の中華民国の南京に留学し、中国の実情を学び、中国人の奥さんと結婚します。

チベットが中国に占領された後、ギャロさんは祖国チベットと世界を結ぶ陰の仲介役としての後半生を送ることになります….

1. タクツェ村とクンブン僧院

ダライ・ラマ14世の次兄、ギャロ・トゥンデュップはチベット人、モンゴル人、ウィグル人、回族、漢民族など多くの民族が共存する、アムド地方(東北チベット、青海省)タクツェ村で1928年に生まれた。大伯父は1860年代にアムド地方の大僧院クンブン僧院の化身ラマの転生として認定されたタクツェ・リンポチェだった。モンゴルで布教した大伯父の遺した富で一家は裕福になった。長兄のテュプテン・ジグメ・ノルブは、大伯父タクツェ・リンポチェの転生に認定されクンブン僧院に預けられていた。

  1. 家族

裕福といってもギャロの家には電気もガスも水道もない。人々は短命で衛生状態は劣悪だった。ギャロが6歳の1935年、父が重い病気に罹り、動物は死に、生まれてきた子供たちも相次いで夭逝するなど不運が一家を襲った。だが、それは幸運の予兆に過ぎなかった。その年の7月6日、ギャロに二番目の弟、ラモ・トゥンデュプが生まれた。

  1. 探索隊の到着

ある晩、奇妙な装束の巡礼者の一行がギャロの家に一夜の宿を求めてきた。当時2歳の弟ラモ・トゥンデュプはかわいい仕草で宿泊客の注目を集めた。宿泊客はラサを出発したダライ・ラマ13世の転生探索隊だった。一行はラモにダライ・ラマ13世の遺品を見せ、テストしたところ、ラモは確実にダライ・ラマの生まれ変わりだった。当時、アムド地方は中華民国領土だった。行政を任されていた回族の軍閥、馬家軍は、ダライ・ラマの転生がタクツェ村にいるとの噂を聞き、家族を西寧に軟禁した。馬家軍との交渉の結果、ダライ・ラマ探索隊は一家をクンブン寺に移動させてからラサに移住させることを許された。探索隊がタクツェ村を初めて訪れてから2年がたとうとしていた。ラモ・トゥンデュプ、将来のダライ・ラマ14世は4歳になろうとしていた。

  1. 弟がダライラマ14世に

アムドのクムブン僧院ではダライ・ラマ転生の噂が広まり、大勢が見物に来た。ラサ行きの旅では、どの宿営地でも敬虔な信者たちが集まった。一行はチベット高原の無人地帯を2ヶ月かけて縦断。中央チベット地方(ウツァン)の国境を超え、壮麗な軍服姿のチベット軍に守られて首都ラサに向かった。旅の先々で祝宴は果てることなく続き、小さなダライ・ラマは祝福を求めて並ぶ数百人の人々に辛抱強く祝福を与え続けた。ギャロに取って旅は楽しかった。そしてラサ到着後の家族の生活はすばらしいものだった。

  1. ダライ・ラマの新生活

テンジン・ギャツォと改名したラモはポタラ宮に入り、家族にはポタラ宮の城下に大きな家が与えられた。ラモの2歳上の兄ロブサン・サムテンがラモと一緒にポタラ宮に住み込んだ。ポタラ宮は幼い子供に住みやすい場所ではなかった。電気はなく、数千のバターランプで照らされた宮殿内は古いバターの匂いが立ちこめ、ネズミの巣窟だった。暖房はなく、冬は毛布にくるまってやり過ごすしかなかった。ラモはそこで厳格な仏教教育を受けた。やがて誰もが知ることになるダライ・ラマ14世の比類なく高潔な人格は、幼少時のポタラ宮の教育の成果にほかならない。

  1. 家族の新生活

ラモのダライ・ラマ認定に伴い一家は貴族に叙された。摂政レティン・リンポチェの取り計らいで、一家には貴族の身分に見合った広大な領地と立派な邸宅が与えられ、領地から上がる小作料と大麦の販売で莫大な富を得た。暮らし向きは変わっても、ダライ・ラマの母は勤勉で、忍耐強い、親切な女性であり続けた。一方、傲慢で短気な性格の父はラサの社会で批判に晒されることが多かった。

  1. ギャロの新生活

ギャロはラサで将来公務に就く子供が通う保守的な校風のターカン学校に通い始めた。当時のチベット人子女にとって進歩的な教育を受ける唯一の手段は外国留学で、タリン家やツァロン家といった一握りの上層貴族は子女をインド、ダージリンにある英系ミッション・スクールに送った。貴族は英領インドからの輸入独占権に基づく交易で富を増やし、チベット国内の親英派を形成していた。ターカン学校に通い始めてすぐ、摂政レティン・リンポチェはギャロの中国留学を打診してきた。当時、ラサに住むチベット人にとって中国は未知の世界だった。イギリスは、かつてチベット領だったラダック、シッキム、ブータンを次々と併合し、チベットにも開国を迫っていた。大国イギリスに対抗するには、中国との関係強化が必要だとレティン・リンポチェは考えていたのだった。

  1. 南京での学生生活

ギャロはインド経由で中国に向かった。インドは全てが近代的だった。ギャロは長髪を切り、耳飾りを外し、初めて洋服を着た。1946年4月、中国軍の対日勝利を祝うチベット代表団とともにギャロは中華民国の首都、南京に向かった。留学スポンサーは蒋介石総統だった。終戦直後の南京にはまだ日本兵が残っており、道路の修理や空港の再建にあたっていた。ギャロはすぐに中国に馴染んだ。蒋介石と宋美齢夫人はギャロを息子のように遇した。世界史と中国史を学んだギャロは、チベットの政治・社会制度の後進性を思い知った。1947年になると南京で国民党批判のデモが盛んとなり、ストが起きた。1948年には首都南京に共産党軍が迫った。国民政府は台湾に逃亡。中国留学を途中で終えたギャロは、新婚の中国人の妻とともに上海、香港経由でインドまで戻った。

  1. インドで立ち往生

相変わらずチベットでは政争が続いていた。ギャロの留学中、ラサではレティン・リンポチェとギャロの父が相次いで不審な死を遂げていた。ギャロは母から、帰国してはいけない、帰国すればダライ・ラマの命が危ないとのメッセージを受け取った。ギャロはチベット国境に近いインドの町カリンポンにとどまることにした。 

  1. 仲介役となる

インドのギャロは各国からチベット政府に向けたメッセージの伝達役となった。インド、イギリス、アメリカはいずれも共産中国の建国と新政府の樹立に対するチベットの対応を知りたがり、チベットに助言と支援を用意していたが、インド国内にはチベット政府の公式の代表機関がなかった。1947年、インド初の首相に就任したネルーは、ギャロ夫妻をニューデリーに招き、共産中国への見解やチベットの現状について聞き、チベットの防衛強化を勧めた。駐印アメリカ大使も本国のメッセージをチベット政府に伝えるよう頼んできた。アメリカも共産中国によるチベット侵攻を憂い、チベットを助けたいと考えていたのだ。カリンポンにはラサ直通の電報局が設置された。ギャロはインド、アメリカ、そして中国からの極秘メッセージをチベット政府に伝えるべくカルカッタとカリンポンを往復したが、送られたメッセージにチベット側からはなしのつぶてだった。世界情勢に疎いチベット政府は内部抗争に明け暮れていた。無知な僧侶たちはチベットが侵略されるはずはないと考えていた。1949年7月、チベット政府はイギリスの助言に従い、突如ラサから全中国人の退去命令を出し、これを共産中国は西側の帝国主義者による煽動と激しく非難した。中国側がチベットの「解放」を言い出したのはこの頃だった。

  1. 中国の侵攻

侵攻は1950年10 月7日に始まった。中国人民解放軍の目標は東チベットのカム首都チャムドを占領し、カム地方のチベット人のラサへの逃げ道を塞ぐことだった。2万人の中国軍に対し、カム駐留のチベットの軍勢はわずか2,500人。敗北は明らかだった。かねてよりチベット政府への忠誠心が薄かったカムの民衆の中には共産党軍を歓迎する者すらいた。侵攻から2週間でチャムドは陥落した。敗北の知らせにラサは混乱し、チベット政府はパニックに陥った。中国側はチベットが中国の一部であるとして、解放軍の駐留を認めるようチベット政府に迫ったが、チベット側はまだ交渉の余地があると考えていた。国連に駆け込んだチベット政府に国際社会は冷たかった。当時のアメリカは朝鮮戦争に忙殺され、インドを独立させたイギリスはチベットへの関心を失い、独立したてのインドは中国と当たり障りのない関係を保つ外交方針に転じていた。未曾有の国難の下、1950年11月17日、16歳のダライ・ラマ14世が摂政から権限移譲を受け、国家元首に即位した。その1か月後、ダライ・ラマ法王一行は一般人に変装してシッキム国境近くのドモに移動し、ラサとインドに通じる無線局を設置した。中国は、ダライ・ラマに傀儡パンチェン・ラマ10世を認定するよう強要し、ラサに戻ったダライ・ラマはそれを認定せざるを得なかった。

1951年5月23日、北京に赴いたチベット政府代表団はチベットを中国の一部と認める「十七か条協定」の調印を強要された。

  1. 帰郷までの長旅

中国のチベット侵攻時、ギャロは台湾にいた。ギャロは共産中国の中枢部と交渉するべく北京に赴こうとしたが、台湾で足止めを食っていた。16か月にわたる台湾滞在を経て、ギャロは渡米し、すでに米国亡命してCIAをスポンサーとして活動していた兄ノルブと再会した。ギャロは米外務省中国局からスタンフォード大学留学の奨学金を得たが、アメリカ留学は止め、祖国チベットに帰ることにした。カリンポンからラサまでの旅では各地で人民解放軍の部隊の駐留を目撃したが7年ぶりのラサの街は出発した時とほとんど変わっていないように見えた。

  1. 再び母国に

ギャロがラサに戻ったのは、中国に占領されてもまだ国を救えると考えていたからだった。チベットの土地改革の必要性を痛感したギャロは、家族の土地で改革の実験を始め、中国の支援を得て教育も改革し、科学技術を導入したいと考えていた。弟ダライ・ラマはギャロの改革に賛成したが、すでに中国に買収されつつあった政府の高官や貴族は改革に後ろ向きだった。チベットの上層部は駐留する中国軍から新たな富を築く機会を得ていた。人民解放軍の駐留でラサの人口は急増し、貴族や商人は潤ったが、民衆は急速な人口増加による物価上昇で窮乏し、中国人を深く憎むようになっていた。中国軍の撤退を求める街頭デモが頻発した。これをアメリカやインドの帝国主義者、台湾の国民党による煽動と考えた中国は駐留軍の数をさらに増やした。ダライ・ラマ法王と2人の宰相は国政から排除され、チベット人高官の8割は中国に買収されていた。危機が迫っていた。

  1. チベット脱出

ギャロは毛沢東主席から北京で開かれる共産主義青年団のチベット代表団の団長となり、中国代表の一人としてウィーンの国際大会に出席することを望まれた。実質的にそれは強要であり、拒めばダライ・ラマの立場が一層難しくなるのだった。国外からの方がチベットのために動けると考えたギャロはインドから外国の支援を仰ぐことを決めた。ネルー首相から亡命許可を得たギャロは、北京行きを見せかけてダージリンに向かった。

  1. インドの生活

ラサの中国当局はインドに亡命したギャロを裏切り者と断罪し、市民権を剥奪した。ギャロはアメリカのトルーマン大統領にチベットの苦境を書き送り、中国の撤退を働きかけるよう要請した。インドで政治活動を禁じられたギャロは、カリンポンを拠点として欧州からの輸入ウィスキーやスピリッツをチベットに輸出するビジネスに手を染めたが、政治活動が解禁されるとインドの諜報局との関係を深めていった。またシャカッパ、ケンチュン・ロブサン・ギャルツェンといったチベット政府の元高官も亡命してカリンポンやダージリンを拠点に政治活動をするようになっていた。ロブサン・ギャルツェンは将来のダライ・ラマの亡命に備え、チベット政府がアメリカで購入し、シッキムに隠した金塊の見張り番をしていた。カリンポンとダージリンは次第に多くのチベット人が集うようになっていった。インドはチベットに同情はしたものの、中国を自国の脅威とは考えていなかったので介入を躊躇した。

  1. ダライ・ラマの訪中

ギャロらがインドに中国の脅威を訴えていた頃、ダライ・ラマは毛沢東から全国人民代表大会に招待され、500人の従者を連れて訪中していた。北京滞在中、ダライ・ラマは12回、毛沢東と会談した。毛主席は、チベットは中国の省でなく自治区とし、その将来の改革はチベット人の手に任せたいと言った。中国の発電所や工場を見学したダライ・ラマは帰途に故郷のタクツェ村とクムブン寺を訪れた。土地改革が始まっていたアムド地方では多くのチベット人が苦境に陥っていた。

  1. ダライ・ラマの訪印

1956年、仏陀生誕2,500周年を記念してブッダガヤで開催された祭典にダライ・ラマは招待された。チベット情勢は悪化しており、アムド地方とカム地方では中国の支配と僧院の解体への抵抗が始まっていた。ラサは難民で膨れ上がり、食糧不足による餓死者が出ていた。インド政府はダライ・ラマの亡命を認め、中国にラサ駐留軍の縮小を働きかけることに合意した。ダライ・ラマとネルー首相は意気投合し、ダライ・ラマはチベットの窮状を訴えてインドに亡命したいと伝えた。だが、周恩来首相の差し金により、ネルー首相は結局ダライ・ラマのインド亡命を拒み、ラサへの帰還を勧めた。2年後ネルーは前言を翻してダライ・ラマのインド亡命を受け入れる。

  1. CIAの援助

1954年、日本の本願寺を拠点に抵抗運動を展開していた長兄ノルブから、ギャロはインド在住のCIA活動家を紹介された。当時のカリンポンは外国人スパイが跳梁していた。モンゴル人僧侶ダワサンポに偽装した日本人スパイ木村肥佐男もいた。1956年にジョン・ホプキンズがCIA長官に就任すると、カム地方に送り込む無線オペレーターとゲリラ戦闘員を訓練したいと、以前より具体的な提案をしてきた。カムやアムドのチベット人は武器と訓練を必要としていた。

  1. ダライ・ラマの亡命

1959年3月1日、ポタラ宮のダライ・ラマのもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが届いた。3月10日、ダライ・ラマが宮殿から連れ出されることを防ぐため、約30万人のチベット人が宮殿を取り囲み、12日にはチベットの独立を宣言した。3月17日、生命の危機を感じたダライ・ラマとその一行は商人に変装してラサを抜け出し、インドに向かった。

  1. マスーリからダラムサラへ

インド国境を超える前からダライ・ラマの亡命のニュースは世界で報道されていた。ダライ・ラマがインド北東アッサム州テズプールに到着するや、レポーターがインタビューに殺到した。そこでダライ・ラマは「十七か条協定は武力威嚇によってチベットに押しつけられたもの」と述べた。周恩来は十七か条協定の効力停止を宣言し、パンチェン・ラマ10世を新設チベット自治区の長に据えた。ダライ・ラマはインドのマスーリでチベット亡命政権を樹立し、「私の政府とともに、私がどこにいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言した。ネルー首相はダライ・ラマへの国際的注目が中国を刺激することを恐れ、僻地のダラムサラをダライ・ラマの最終的な亡命地として選んだ。8万人のチベット人がダライ・ラマを追って国境を越えていた。

  1. ムスタン

ラサ蜂起では組織化されていなかった民衆の抵抗はほどなく鎮圧されたが、カムとアムドでの戦いはダライ・ラマの亡命後も続いていた。1957年から1963年までに250人以上のチベット人の若者がサイパンやアメリカ本土でCIAの訓練を受けた。訓練を受けた兵士はCIAに供与されたライフル、手榴弾、無線機などを手にゲリラ活動を行なったが、供与された武器は中国軍のものとは比較にならず貧弱だった。1960年にはチベット本土での戦いは沈静化し、その後はネパールの寒村ムスタンを拠点にゲリラ活動が続けられた。

  1. インドに居を定める

ダライ・ラマを中心としたチベットの政府組織はほぼ丸ごとインドに亡命できたものの、8万5,000人の難民と共に新天地で暮らしを始めるのは容易ではなかった。亡命政府は取り急ぎやるべき仕事のための部署を設け、学校や病院の建設を始めた。ギャロは、外国政府に情報を提供して交渉する役割を亡命政権から与えられた。差し当たっての亡命政権の最大の問題はお金だった。政府はシッキムに隠していた金塊を売って資金を作ろうとしたが、取引仲介者の不正により、金塊の代金は消えて政府の手に渡ることはなかった。こうした初期の困難にもかかわらず、チベット亡命社会は着実に地歩を築いていった。 

  1. 中印戦争

1962年、中国軍の侵攻により中印戦争が始まった。戦いはインド側の敗北ですぐに終わり、中国軍は撤退した。インドの防衛相は辞任し、屈辱を受けたインド国防軍では再編成が行なわれた。ネルーの非同盟主義は破綻し、中印の諍いを挑発するアメリカの戦略は成功した。インド諜報部の長は、ギャロに台湾との接触の仲介を求めてきた。ギャロは密かに台湾に渡り、仲介の労を取った。ギャロは同時に、台湾にチベット支援の公式声明を出し、台北にダライ・ラマ法王代表部事務所の開設をするよう迫った。台湾側はこれに同意したにもかかわらず、結局、声明を出さなかった。その後、李登輝総統の時代に台湾とチベットの関係は改善した。1993年のダライ・ラマの台湾訪問時には、李登輝総統との会見も実現し、李登輝政権は極めて多大な寄付をダライ・ラマ法王庁にした。今日、台湾の民主進歩党と仏教関係者とチベット亡命政権の関係は極めて良好だ。

  1. CIAの支援打ち切り

1967年ごろ、CIAからの支援が打ち切られそうだとの警告をギャロは受けた。警告をしてきたのはソ連。チベットはインドとアメリカとばかり親しくしていると言って、タシケントでチベット人レジスタンス戦闘員を訓練したいと提案してきた。見かけ上は中国の友好国であるソ連側の本心を試すため、ギャロは国連のチベット決議を支持してくれるよう頼んでみた。1969年になりCIAからの支援打ち切りは現実となった。キッシンジャー国務長官のアイディアで、米国が中国との友好路線に舵を切ったためだ。1974年7月、ダライ・ラマは肉声テープで、ムスタンの兵士たちに武装解除を呼びかけた。武装解除を拒み、自殺する兵士やネパール警察に逮捕されて投獄された兵士もいた。

  1. 香港での新生活

1960年代半ばからギャロは香港に活動の本拠を移した。中国本土では文化大革命の嵐が吹き荒れていた。ギャロはビジネスマンに偽装し、中国情勢の理解に努めた。

  1. 再び中国へ

1979年になり、中国の政府系メディア新華社を通じて鄧小平主席がギャロに面会を求めてきた。非公式に鄧主席と面会することをダライ・ラマに勧められたギャロは北京に赴いた。30年ぶりの中国本土訪問で、ギャロは中国の変貌ぶりに目を見張った。中国はギャロを歓待した。

  1. パンチェン・ラマ10世

文革時代が終わった中国では糾弾された人々の名誉回復の最中だった。パンチェン・ラマもその一人だった。ギャロは北京でパンチェン・ラマ10世と会った。パンチェン・ラマは1962年に出した「七万字の請願」で中国のチベット政策を批判したかどで14年にわたり投獄されていた。釈放直後のパンチェン・ラマは地位を奪われた悲しい人物に見えた。その後、自身の地位を取り戻したいので鄧小平に頼んで欲しいとパンチェン・ラマは何度もギャロに電話をかけてきた。

  1. 鄧小平との面会

鄧小平はギャロを歓迎した。「チベットの独立以外なら全てを話し合う用意がある」として、ギャロが提案した全ての内容(中印国境を超えた亡命チベット人の往来許可、パンチェン・ラマの待遇改善、チベットへのチべット語教師の派遣、北京のダライ・ラマ法王代表部事務所開設)に好意的に応じた。

  1. チベットへの帰郷

鄧主席とギャロの会談後、中国とチベットの関係は劇的に変わろうとしていた。ギャロはダラムサラのダライ・ラマに、中国の変化を利用して徐々に関係を改善していくよう助言した。1979年から1980年にかけて、ダライ・ラマは3回、事実調査のための代表団をチベット本土に送った。代表団はアムド、カム、ウツァンの全地域をくまなく回り、ダライ・ラマのメッセージをチベット人に伝えた。代表団は僧院をはじめ、チベットの文化が完膚なきまでに破壊され、人々が苦境に陥っているのを目の当たりにした。代表調査団の回を重ねるごとに中国側との摩擦は大きくなっていった。ギャロは1981年に再び北京を訪問して胡耀邦書記長と会談した。胡書記長はダライ・ラマに中国に帰ってもらいたい意向を伝えた。亡命政権側は、ダライ・ラマを北京に住まわせようとする中国の条件に二の足を踏み、チベット亡命社会の怒りを予想して中国が課した条件を公にしなかった。チベット側の躊躇は中国政府の怒りにつながった。ギャロから他の亡命政権メンバーに引き継がれた交渉はなかなか進展しなかった。

  1. 中国との交渉決裂

1980年代になるとダライ・ラマの名声が世界的になり、その高い品性が世界に知られるようになった。過去20年にわたりチベットの独立を主張してきたダライ・ラマは、1980年代になると妥協が必要と考えるようになった。1987年9月、ダライ・ラマは米国議会の幹部会で、チベットを中印の緩衝地域とするとともにチベットへの中国人移住の制限を訴える五か条平和プランを発表した。その数日後、ラサでは大規模抗議運動が起きた。中国政府は抗議運動は外国の扇動と武器供与によるものではないかと疑った。1988年6月に、ダライ・ラマはストラスブールの欧州議会で初めて中道アプローチによるチベット問題の平和的解決の提案を発表した。 これを受けて、中国側はダライ・ラマ使節団との交渉再開に同意した。ところが、交渉再開の日程をギャロが詰めている間に、亡命政権は1989年1月、中国側の了解を取らないまま、ダライ・ラマ法王使節団とスイスのジュネーブで会うよう中国に呼びかける声明を発表した。中国は激怒した。ギャロが亡命政権に声明を出した理由を尋ねると、それはチベットの自治ではなく独立を望むインドの高官の差し金だったことが明らかになった。

  1. 絶好の機会が失われる

鄧小平はパンチェン・ラマ10世の葬儀に際してチベット側にもう一度チャンスをくれた。ダライ・ラマが訪中してパンチェン・ラマの法要を行うよう望んだのだ。だが、亡命政権はダライ・ラマ法王の誘拐を恐れて、法王を行かせなかった。1989年、中国では天安門事件が勃発した。ギャロは中国側を刺激しないために亡命政権に沈黙を守るよう助言したが、結局、ダライ・ラマは学生の民主化要求を支持する声明を出して中国を刺激した。1989年にダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞し、1990年には米国で中国政府は2年以内に崩壊すると述べた。とうとう中国側は二度とチベットとの交渉再開に触れなくなった。

  1. またもや機会を失う

天安門事件の時と同様、パンチェン・ラマの転生認定の時も、自身の認定内容を中国に報告する前に世界に公表するという誤りをチベット亡命政権は犯した。もちろん中国は激怒した。パンチェン・ラマの認定は歴史的にはダライ・ラマの権限だったから、ダライ・ラマはよもやそれが中国の怒りを買うとは思わなかったのかもしれない。メンツを潰された中国側は自身の選んだ転生認定者を発表した。ダライ・ラマが認定したニマ少年は行方不明となった。

  1. チベットへの帰郷

ギャロは、インド、香港、中国を往復しながらチベット代表団をチベット本土に送ってきたが、自分自身は亡命以来、チベット本土を一度も訪れていなかった。2002年に73歳のギャロは初めて本土を再訪した。40年ぶりのチベットは、山と河を除いて全てが様変わりしており、もはや何の感慨も起きないほどだった。

  1. カリンポンから世界を見る(全文翻訳)

1999年、公務から退いた私は、これまでと違う暮らしがしたいと考え、カリンポンに帰ることにした。

カリンポンは1945年の中国行きの旅の途中で立ち寄った初めての外国の町だ。中国の内戦を逃れてインドに戻ってきたときに新婚の妻と住んだ町でもあった。1952年にチベットを出て初めて住んだインドの町はダージリンだったが、私たち夫婦はそのときからカリンポンに土地を買って商売でもできたらと考えていた。カリンポンはチベット国境に近く、当時もまだチベットとインドの交易拠点となっていた。カリンポンでは毎日、チベット人に会えた。社会に役立つものづくりで生計を立てたいと考えていた私と妻は、小さな土地を買って牛を数頭飼い、牛乳とヨーグルトを売り、もしかしたら麺工場の経営などもできないかと考えていた。ダージリンの土地の値段は私たちには高過ぎた。すると、ダージリンの富豪ビルラ家の取引先で茶店を経営する人物が、土地がカリンポンの土地を売っても良いとビルラ家が考えていることを教えてくれた。私と妻は早速、ジープに乗って土地を見に行った。

ビルラ氏の代理人はカリンポンの複数の地区に点在する10区画の土地を見せてくれた。そのどれもが私たちには高過ぎた。代理人は最後に中心街が広がる丘の裾野の一区画を私たちに見せた。その3エーカーの土地は約100ドルと私たちにも買える値段だった。私と妻は建物が完成する前から、土地に木を植え、野菜の栽培を始めた。次に数頭の牛を飼い、聖ジョセフ修道会と地元の学校向けに牛乳とヨーグルトを売り始めた。麺工場の稼動にはさらにもう少し時間がかかり、開業は1980年だった。当時、妻はダージリンの難民センターの仕事に忙殺されており、私は大半の時間をニューデリーで過ごしていた。私たちはカリンポンの麺製造工場の運営をアムド出身の同郷人とその友人に任せた。その後約20年、麺製造工場の運営は彼らの手で行われた。経理をチェックし、現場を視察するため、妻は毎週、カリンポンに通った。私はそれほど頻繁には行けず、2〜3ヶ月に一度、2日程度をそこで過ごした。1970年半ばには、長年、生活を共にしてきた親切で働き者の尼僧に付き添われて母がカリンポンの家に引っ越してきた。何人かの従者に世話を焼かれ、母はそこで大半の時間を祈りながら過ごした。ところが、母はほどなくカリンポンの暮らしを寂しいと感じるようになり、ダライ・ラマとその2人の兄弟、沢山の友人が住むダラムサラに戻った。母は1981年にダラムサラで亡くなった。その5年後の1986年には妻が亡くなった。

1999年に麺製造工場を引き継いだ私は大半の工員に暇をやり、心機一転、商売をやり直すことにした。工場は今もいろいろな問題を抱えている。四六四十、資金不足に陥っている。とはいえ、売り上げは伸び、商いは続いている。裕福ではないが食べていける。誰に物乞いしなくてもいい。麺を作るのは誇りが持てる仕事だ。モノを作り出し、周りの人にも仕事を与えてやれる。工場はカリンポン、ダージリン、シリグリ、ブータンの家庭の食卓に乗る麺を作り、数千人の人々に麺を届けている。

麺工場を経営するカリンポンの生活は、過去を振り返る時間を私に与えてくれた。この数年、あまりにいろいろなことを考え過ぎて精神的にすっかり参ってしまった。人生を振り返って本当に幸せだと感じられたのはアムドとラサで過ごした子供時代だけだった。そこで家族は幸せだった。大伯父のタクツェ・ラマがモンゴルから帰国したとき、大伯父はとても裕福だったから、アムドで満州人に取り上げられた土地を買い戻して家を建て直すことができた。祖父はヤク、羊、馬、ロバを飼っており、父は祖父の資産を丸ごと相続した。家族は召使いを雇い、隣人たちとは良い関係だった。どこから日々の糧を得ようか、地元の軍閥馬歩芳に払う税をどう工面しようかなど考えなくてもよかった。私たちは小家族だった。兄弟は皆、小さい時に僧院に入ってしまったから、残されたのは両親と姉と私の4人だけだった。その姉も結婚してからは実家から離れて住むようになった。タクツェ村の生活は幸せだった。唯一の悩みの種は学校の勉強だったが、学校でも私はほとんどの時間を遊んで過ごしていた。

キューサン・リンポチェとダライ・ラマ14世探索隊がアムドに来て、その後、家族はキャラバンを組み、ほぼ3か月かけてチベット高原を縦断してラサに着いた。生活は突然、スリリングなものに変わった。ラサで過ごした日々のうち、ラサの学校で過ごした初期の日々は人生で最高に幸せで、アムドより生活はさらに楽しかった。誰もが優しく、どこに行っても歓迎された。何の心配事も責任もなく、必要なものは全てチベット政府から与えられた。

中国留学が決まってから今までの私の人生は幸せだったとは言えない。過去65年から70年にわたり、幸せと感じられることは何もなかった。自らの手で選んだチベットの救済に身を捧げるという仕事は難しかった。次々と問題が起きた。私は中国国民党、アメリカ人、インド人、イギリス人、ロシア人、そして後には中国共産党政府と次々に関わり、問題を解決しようとしたが、結局、解決できなかった。こうやって今、カリンポンの地から当時を振り返ると、与えられた責任や直面した問題にわれながらよく対処し、事に当たってきたと思う。別の見方をすれば、陰謀や策略に逢い、複雑な状況で難しい決断をすることはスリリングでもあった。決してうまくやったわけではないが、真摯に取り組むべき困難な状況に遭遇したという点では確かにスリリングだったかもしれない。多くの人がギャロ・テュンデュプはヒーローだと言う。でもそれは違う。私はチベット人を救い、チベットに尽くそうとした多くの中の一人に過ぎない。私はヒーローではない。特別な能力はなく、2本の手、10本の指、2つの目を持つ、普通の人間だ。ただ屈することなく、諦めることなく、過去65年間、ひたすら努力してきたに過ぎない。

人生で一つだけ悔いがある。CIAに関ったことだ。はじめのうちは、チベットの独立闘争を支援したいというアメリカを本気で信じていた。だがその後、それはアメリカの本心でないとわかってきた。私の間違った希望的観測だったのだ。CIAがチベットの独立を目標にしたことはない。アメリカは本気でチベット人を助けようとは考えていなかった。アメリカが望んだのは、チベット人を利用して中印間に誤解と不和を生み出し、火種を起こすことだけだった。結局、アメリカはそれに成功した。悲劇的な結果の一つが1962年の中印国境紛争だ。

1959年にチベット人が蜂起したのは、抑圧し、チベットの昔ながらの暮らし方を壊そうとする中国人を憎んだからだ。チベット人は怒りと絶望に駆られて戦ったのであり、中国人をチベットから追い出せると本気で考えていたわけではない。チベット人は抵抗運動がどんな結果につながるかには考えが及ばず、ほとんどのチベット人は本当に勝てるとは信じていなかった。それでも支援を得ることに必死だったチベット人は、とりあえずはCIAから必要な支援が得られるだろうと考えたのだった。

CIAから支援を受けたことで良かったことが何かあっただろうか? ほとんど何もない。CIAが実際にやったことは、わずかな数のチベット人を訓練し、そうした兵士と少量の武器をチベットに送り込むことだった。CIAの武器供与量は十分には程遠かった。もしアメリカが本気でチベットを助けたかったなら、最低でも中国人と互角と戦えるだけの武器と資材を送れたはずだ。だが、レジスタンス戦闘員は十分に戦える武器すら与えられなかった。このことについて私は今でもアメリカを恨んでいる。

CIAとの協力は中国を挑発し、レジスタンス戦闘員とチベットの民衆を大量弾圧する口実を中国に与えてしまった。それによって数万人のチベット人が殺された。

CIAとの協力で私が果たした役割は、今も心に重くのしかかっている。そのことについて私は数十年のあいだ沈黙を守ってきた。だが今は真実を言うべき時だ。CIAとの協力は間違っていた。CIAが差し出した支援の手はどんなに小さなものでも受け取ってはならなかった。CIAと協力せず、CIAがくれようとしたちっぽけな支援を受け入れなければ、あれだけ多くのチベット人を殺す口実を中国に与えないで済んだ。CIAとの協力は多くの無辜の市民の死につながった。中国が殺そうとしたのはチベット人だけではない。彼らはチベット文化の抹殺も図った。私が手を染めたCIAとの協力行為はチベット文化の完全なる破壊につながった。その現実を思うと強い痛みを感じる。長年、そのことが頭から離れず、良心に重くのしかかっている。頭から追い払えないのだ。私は罪悪感を感じる。大きな悔恨だ。

では私は何を成し遂げたのだろう? 成果を語るのは時期尚早だ。まだ何もできていない。チベット問題は解決していない。ダライ・ラマはまだ母国に帰還できない。安心につながる材料は何もない。何にせよ、今の時点で実績を語るのは愚かしい。

世界は奇妙で複雑だ。1945年に第二次世界大戦が終わり、国際連合ができた。アジアとアフリカを植民地独立の波が席巻したのと時を同じくして、毛沢東はチベットと新疆に侵攻し、植民地化を始めた。植民地独立と民族自決を叫んでいたはずの国々が毛沢東の侵攻には沈黙した。チベットの植民地化に反対して声を上げた国は一つもなかった。チベット人は中国人と全く違う民族なのに。文化、言語、宗教、慣習、政治統治制度のどれを見ても、チベットは固有の民族だ。チベットはあらゆる点で中国と違う。新疆もそうだし、モンゴルもそうだ。これらの民族はどれも植民地化され、中国に武力で制圧されている。

カリンポンの丘にある陋屋から世界を眺めれば、冷戦は続いており、世界は無秩序と対立の新時代に突入しつつある。それは三国志の舞台、魏、呉、蜀の3つの古代王国の衝突を彷彿とさせる。

今日、衝突する三大国はロシア、中国、アメリカだ。第二次世界大戦の終結後に始まった冷戦はまだ続いている。ロシアは再び好戦的となり、大国化する中国はますます攻撃性を高め、混沌として暴力性を増す世界でアメリカは未だ自国が国際社会で果たすべき役割を見極められないでいる。今日の無秩序で戦乱に引き裂かれた世界全体から見れば、チベットは小さな、取るに足らない、その存在する定かでない、ちっぽけな一点に過ぎない。

チベットの変化は天から落ちて来はしない。それは個人の努力、そして一致団結して協力して問題に取り組む多くの人の努力によって初めて起きる。私はチベットの若い世代がもたらす変革に期待している。多くの若いチベット人、とくにチベット本土の若者は歴史を知らず、過去に起きた出来事に無知だ。チベット本土では誰も過去を語らない。語ることを恐れているのだ。あまりにも多くのチベット人の若い世代が自国の民族史を知らないままだ。

反面、チベット人の新世代は私の世代よりはるかに豊富な知識を持ち、高い教育を受けている。私たちは無知無教養のまま成長し、時代遅れの伝統に囚われ、伝統を超えた世界と接触の機会もなければ、それを理解することもできなかった。今日、チベット人は本土でも亡命地でも、世界を学び、世界を知る機会にはるかに恵まれている。若者に与えられる教育は私の時代よりはるかに優れている。テレビとインターネット時代の到来、ボイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・アジアのおかげで、チベット本土のチベット人はダライ・ラマの行いや言葉を学び、今、ダライ・ラマがどこを旅し、誰と会っているかを知ることができる。

チベット民族はかつてないほど団結している。かつてアムド、カム、ウツァンのチベット人を隔てていた分断は乗り越えられてきた。問題の解決方法について意見が違っていても、自分たちの問題はチベット人全体の問題だと考える点では一致している。独自の文化、言語、宗教の保持にコミットするという姿勢は誰もが同じで、ダライ・ラマ法王を全チベット人の尊敬する宗教指導者とする認識も同じだ。絶滅危惧種の虎の皮でできた上着の着用を止めろとダライ・ラマが言えば、チベット人はそれに従う。ダライ・ラマはこれまで常にチベット人に強い影響力を及ぼしてきたが、今やその影響力は物理的に隔てられた場所に住むチベット人にも及んでいる。チベット人の一体性は今に至るまで保たれており、むしろ昔より今の方がこうした一体性が保たれやすい状況ですらある。新しい多様なコミュニケーション手段のおかげだ。

私たちチベット人は一人一人が自国の文化の保全に貢献できるのだから、それぞれが努力をしなければならない。チベット人は自身の正当な権利が認められるよう要求を続け、二級市民の扱いには声を上げて反対し続けなければならない。とはいえ、チベット人だけで行動しても求める変化が起きるチャンスはほとんどないだろう。助けが必要だ。私たちは世界の民主主義勢力の支援を得るための主張を続けなければならない。チベット人はまだ多くをアメリカから学べる。亡命地においてすら、チベットの若者の多くはまだ完全には現代社会に適応していない。チベットの若者は現代の産業技術によって作られる世界の仲間入りをするために、まだ技能訓練を必要としている。アメリカから教わることはある。

そして、いつか中国は変わるとチベット人は信じ続けなければならない。過去数十年にわたり国力が高まるなかで、中国では政府高官による大量汚職と権力濫用が起きてきた。現代中国は良心や原理原則のない野心や強欲でいっぱいだ。私たちチベット人はそれを他のどの民族より思い知っている。中国指導陣の道徳性、つまり国家の正統性には疑わしいものがある。

25年以上前、共産党指導陣の中には武力による支配はうまくいかないと認める者もいた。1989年の天安門事件当時、統一戦線部長だった閻明復は、武力による支配はうまくいかないと言った。「武力に効果があるとは思えない。それは無駄だ」と言っていた。中国で少数民族は平等に扱われるべきだと閻は考えていた。だが、閻のような人物が個の力で中国を変えることはできない。閻は当時の趙紫陽首相、中央政治局常任委員だった胡啓立とともに解任された。天安門のデモ参加者を弾圧する武力行使で鄧小平と意見対立したためだ。その鄧小平自身も側近中の側近である江沢民、曽慶紅、そして自身の息子である鄧樸方から、天安門事件をめぐる事実について操縦され、間違った情報を与えられた。鄧小平は衝動的だった。天安門で実際に何が起きていたかを鄧はよくわかっていなかっただろう。

江沢民が権力を掌握し、鄧小平が死ぬとチベットをめぐる見通しは変わった。鄧小平と胡錦濤はダライ・ラマとの対話を望むようになり、ダライ・ラマによってチベットを変える道を模索するようになった。だが江沢民はそこに新たな障害を設けた。1998年の北京訪中時、アメリカのクリントン大統領は中国の江沢民主席との共同記者会見の席上で、会ってみたところダライ・ラマは正直な人物だと感じた、と述べ、公衆の面前で江主席にダライ・ラマとの会談を迫った。江主席がダライ・ラマと話をすれば二人はきっと馬が合うだろう、とクリントン大統領は言った。だが、江主席はダライ・ラマのチベット帰還に新しい2つの条件を設けた。一つは、チベットを中国固有の領土だと認めること、そして、もう一つは台湾を中国の省だと認めることだ。

江主席はこうした条件を新しく加えたのに、国際メディアはその重要性を十分に理解していない。チベットが中国固有の領土だったことはない。数千年にわたりチベットには中国の領土とは重複しない領土があった。清時代には一時的に征服状態になったが、それはすぐに終わった。これは南京留学時代に私が中国人自身の手による中国史から学んだ一番、重要なことだ。歴史はあくまで歴史であり、それは変えられない。チベットが中国の一部だったという認識にチベット人は決して同意しない。

早かれ遅かれ、中国は変わらなければならないだろう。中国がチベット、新疆、モンゴルを植民化した状態は続かない。自国の国民を武力で屈服させ、支配する状態を永遠に続けられはしない。長い目で見れば恐怖と抑圧による支配はうまくいかない。中国の指導陣はそれを知っている。歴史で究極的に力を持つのは民衆の意思と判断だ。それは中国の古典三国志の物語の教訓でもある。

チベットの運命は、今日の混沌とした世界の問題が最終的にどう決せられるかで決まるだろう。魏、呉、蜀の三国が和平を結ぶまでには80年の戦乱が必要だった。第二次世界大戦の終結から70年が経過し、今、新たな冷戦が始まっている。今後10年の間にはロシア、中国、アメリカの冷戦も終わるだろう。私たちが望むべきことはこの戦いにアメリカが勝つことだ。

私はアメリカに希望を持ち、チベットに希望を持っている。数千年の長きにわたり、世界の屋根チベット高原にチベットという国があった。チベット人は21世紀の今日まで生き延び続けた。チベット人は今後も生き残る。チベット人を弾圧と銃で支配するのではなく、平等な民として扱わなければならないことにいつか中国共産党は気づく時が来るだろう。事態は変わっていく。私はそう確信している。

チベット人は土地を失い、民族としての独立を失った。それでも失われることがなかったのは道徳の羅針盤だ。チベット仏教とダライ・ラマに対する信仰は、現代中国に欠けた倫理的価値をチベット人に与えるものだ。今も昔も変わりなくダライ・ラマはチベット人が深く敬愛する道徳的指導者だ。この点でチベット人はすでに勝利している。中国は寛容と慈悲、人権の尊重というチベット人の価値観から大いに学ぶ必要がある。今後何が起きようとも、私たちチベット人は自由と独立のための戦いをすでに始めている。こうした戦いは続くだろう。炎は消えない。

最近、ダライ・ラマと会った。体調の悪い私にダライ・ラマは、「死んじゃだめだ。チベットに一緒に帰ろう」と言った。私は今でも真実と正義は最終的に勝利し、チベットは生き残り、私たちは皆一緒に故郷に帰れると信じている。

(終わり)

 

 

 

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