ソーシャルの達人とアナ雪

フランス人の男性の旧友に、「パーティー=ソーシャル」の立ち回りが極めて上手な人がいた。

さりげなく人の間を歩き回り、人に声をかけ、 相手を思いやって相応しい話題を提供する。聞いて良いことと悪いことの違いをわきまえ、話の頃合いをわきまえ、適度に熱心に相づちを打ち、適度な頃合いを図って去っていく。抑制の効いた会話、シャレたユーモア、幸せそうな笑顔。彼の周囲にはいつ も幸せでエレガントなオーラが漂っていた。

それに比べて私は無様。パーティー会場に入るとまず、顔をこわばらせて知り合い がいないか見渡す。知り合いがいても、その人が他の人と一緒だと近寄れない。ましてや知らない人に声を掛けたりできない。会話の輪からアブれた自分を自覚し、しかたなく悲惨な顔で テーブルのごちそうをパクつく。パクつきながら、ひたすら「こんな寂しい姿は人に見られたくない、時間の無駄だ、早く帰りたい」と思っている。やっと知り合いに話かけられても、「話題がない!何も話せない!」と思ってしまう自分がいる。かといって自分から場を抜け出す勇気もない。いつも「パーティーなんて大嫌い」と思う。

人が5人以上いれば「ソーシャル」が生まれる。ソーシャルはサッカーのようにルールに沿ったゲームだ。ソーシャルには「話し役」「聞き役」「仕切り役」「からかい役」「からかわれ役」などの役割分担がある。「み んなの前で話していい話題」と「駄目な話題」の区別が生まれる。付かず離れず、まるでスポーツのように巧みに人と人の間を泳ぎ回らないといけない。

昔からグループが苦手だった。学校のクラス、ゼミのコンパ、立食パーティ、大規模コンサート、団体旅行に団体スポーツはどれも苦手だった。私が今時の高校生ならFB、LINE、Instagramで今頃ノイローゼになっていただろう。

「アナ雪」のエルザは、ソーシャルを逃げて、雪山に独りでこもった。

日本中の数百万、数千万が今、「レリゴー」に熱狂している。

「レリゴー」が好きな人は皆、私と同じようにソーシャルが苦手で、人間関係で疲れているのだと思う。でも。。。。問題はレリゴーはハッピーエンドのエンディング•ソングではないことだ。

レリゴーを歌っているときはあんなに自由でパワフルで元気だったエルザ。でも結局、妹の説得で最後には雪山を下りるのだ。自分の個性を守るために独りで山にこもり続けることなど許されることではないのだ。

彼女がソーシャルの世界に戻るきっかけは、妹のアナの自己犠牲と、それを契機とした他人への信頼回復だった。

エルザのこれからの課題は、自分の個性を失わないことと、社会で行きていくことのバランスを取り続けることだろう。

中高校生が体験する、息が詰まるようなソーシャルの世界は、大人の社会を生き抜くための予行演習だ。

家族、親戚、会社の同僚や上司、業界団体、ボランティア組織、地元コミュニティやPTA。およそ大人が人生で何かを成し遂げようとしたら、「ソーシャル=社交」を避けて生きることは出来ない。大人は生きている限り、楽しくても、楽しくなくても、ソーシャルを淡々と、延々と続けないといけないのだ。たまに「レリゴー」を歌ってガス抜きしながら。

パーティーやソーシャルが嫌いでも淡々と受け入れる。人前ではつまらなくても笑顔を作る努力をする。他人とコミュニケーションする努力をする。楽しくても、楽しくなくても。

そうした努力の99%は徒労かもしれないが、残りの1%は新たな可能性につながる。新たな出会いや、思いがけない情報の獲得や。

フランス人の知人は今、アメリカで要職に就いている。彼は天然のソーシャルへの達人ではなく、ソーシャルの価値を知り、人生の目標に到達するため、そこに全能力を傾けることの出来る努力家だったのではないかと今になって思う。

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