クリシュナムルティ:過去の記憶が生活を退屈で空虚にする

クリシュナムルティの言葉。

~雲や葉を見ることは楽しい。美を感じるのは楽しいことだが、その楽しみを次の日まで引き伸ばそうとすると苦しみが始まる。歓喜と快楽はまったく違うものだ。快楽は、引き起こしたり、それについて思考したり、長く引き伸ばしたり、味わったり、追い求めたり、大事にしたりできる。だが歓喜やエクスタシーにはそれができない。

~夕焼けを見ると悦びを感じる。悦びはほどなく記憶に変わる。こうした悦びの記憶は生きたものだろうか?いや、すでに死んでいる。だから、あなたは夕焼けの死んだ残影に悦び見つけようとするのだ。記憶には悦びはなく、それは悦びを生み出したものの形見に過ぎない。記憶の中に悦びはない。木の美しさへの瞬間の反応の中に悦びはあるが、その後に記憶が生じてそうした悦びを壊してしまう。だから、記憶を重ねることなく美を絶えず感じられれば、悦びを持続できる可能性が生まれる。

~素晴らしい夕焼けや野原の美しい木を見て、あなたはそれを十分に完全に楽しむ。だが、あなたはそれをもう一度味わおうとして戻ってくる。もう一度楽しもうと思うと何が起きるだろうか?もう楽しみはない。昨日の夕焼けの記憶を頼ってあなたは戻ってきたわけだが、過去の記憶はあなたに楽しむよう強要するのだ。昨日、夕焼けを見たときのあなたには過去の記憶はなく、あなたはごく自然にそれを美しいと思い、その美に直接反応した。だが、今日のあなたは昨日の体験を再現しようとする欲に囚われている。あなたと夕焼けの間に記憶が介在するようになったことで、悦び、豊かさ、完全な美が失われたのだ。昨日、あなたを褒めたり貶したりした友人がいる。あなたはその記憶を持って、今日再びその友人と会う。その場合、あなたは真にその友人と会うことにならない。あなたは昨日の記憶を背負っており、それが今に介在してくるからだ。こうして私たちは自分自身と自分の行為を過去の記憶で固めるから、新たなものに出会えず、新鮮な感覚は失われる。こうして記憶は生活を退屈で空虚なものにする。

子どもたちの顔を見ると、どんな造作の子どもも美しく輝いている。これは、子どもたちは過去の記憶が少なく、昔のことを考えずに現在を存分に生きているからと思う。通勤電車に揺られる大人の顔を見ると、ゾンビのように目が死んでいる人が多い。これは、これは心が過去の記憶に押しつぶされているからかもしれない。

記憶は人間が社会生活を営む上で絶対必要な機能だ。自分と知人の住所や電話番号、顧客の名前と人柄、過去の株価推移、今後一週間のスケジュール、学校や会社の地理などの記憶がなければ社会生活をまともに送れない。人類の歴史、家族の歴史、個人のキャリア、経験から学んだ教訓、これら全ては人間の記憶がなす業だ。

だからこそ、人は大人になり、年を重なるといっそう、自分の記憶と経験に頼りがちになるのだが、頼りすぎると「こだわり」から抜けられず、新しい経験ができなくなり、悦びに出会えなくなる。エントロピーの法則、放っておくと家の中のモノがどんどん増えていくいくのと同じだ。意識的にこだわりを捨て、自分の中にスペースを作っていかないと、人間はどんどんガンジガラメになっていく。

良い週末を!

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