アラフィフから50代へ

年末、翻訳の仕事に追われていたら、目が真っ赤っか。コンタクトレンズが付けられず、もはや、非常事態。眼鏡でパソコンを見ても、スマホを見ても目が霞む状態に。当然、ブログは更新できないし、年賀状を書くのもやっと。

目を休ませなければ、ということで、アイシャドウもマスカラも止め。眼鏡に似合うヘアスタイルに、ということで、ロングヘアは切り落としてボブにした。

鏡の前の自分はまさに50歳のオバサンそのもの。

そう、私は今日から50代。

コンタクトレンズのトラブルは失明にさえつながるというが、裸眼の私はほぼ何も見えない。

見えなければ、鏡で自分の姿をチェックできない。翻訳の仕事もできない。LIneやFacebookに書き込む視力がなければ多くの友人知人とのつきあいもなくなる。旅行や車の運転もむずかしくなる。

現在のフツーの生活の多くは、あまりに視力に依存しているから、そもそも視力が駄目なら、あらゆることが出来なくなる!

一気に自分の世界観が崩れていく不安と恐怖を覚えた。

反面、もう、昔ほど頑張らなくてもいい自分の状況がある。子育ては峠を過ぎた。しゃかりきになって働かなくても、食べていける。ソーシャルやらなくても、最低限の人間関係はある。

弱視だって、家事はできるし、子供の学校の保護者会くらいは行ける。

世の中の多くの人が、私ほど目を酷使しないで、平和に、幸せに生きている。

神様は私に、「もう沢山、見たいものを見て来たでしょ。もうそんなに見えなくてもいいんだよ。本を読むのも止め、お洒落をするのも止め。ソーシャルもそろそろ止め」と言っているのかもしれない。

もちろん、「まだまだ、インプットして、アウトプットしたい。情報発信したい。創造したい。刺激を受けたい。どんどん綺麗になりたい。輝きたい。お金も稼ぎたい。いろいろな人と知り合いたいし、知らないことを知りたい。沢山、本を読みたい。旅行もしたい」という欲がにきりがない。

意識的にはまだまだ道半ばで、もっと、もっと、と思っている。

でもそれは自然を無視しているかもしれない。

中毒的欲望が50歳の節目の目のトラブルとなったのかも。

手放して、諦めて初めて見えてくるものがあるのかもしれない。

とうに盛りを過ぎた花。

綺麗に枯れる花と、惨く枯れる花がある。

綺麗に枯れるにはどうしたらいいのだろう。

自然のシグナルに従い、前頭葉を少し休ませること。不安を飼いならすこと。肥大した自我をしぼませること。若いときに必要なものと、年をとって必要なものは違うことを見極めること。

本を読めないなら、庭の雑草を取ればいい。お金を稼げないのなら、使うことで社会に貢献すればいい。ソーシャルで人とつながれないのなら、リアルのつきあいを大切にすればいい。知的に精緻に分析する代わりに、大らかに笑い飛ばせばいい。見えなければ、聞き、触り、嗅げばいい。

そういう、これまでと違うバランスを見極めるのが私の50代のテーマなのだと思います。

みなさんはいかがですか?

PCはちゃんと見えなくても、庭なら見える。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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