【映画評】ラサへの歩き方

神社参りが好きだ。できれば、参拝前には長い参道と階段があることが望ましい。肉体の酷使は煩悩を減らし、祈ろうとする心を浄化してくれるからだ。

おとどし、ダラムサラでは、チベット式「五体投地」にトライしてみた。img_0159

ヨーガの「太陽礼拝」にも似た合掌、うつぶせのストレッチ、そして片足ごとに立ち上がるポーズを何度も繰り返す。身体全体を投げ出す感じが、なにより、エキササイズとして気持ちがいい。それに、身体を投げ出し続けることで、抱え込んでいた執着が軽くなっていく気がする。

身体と心の健康はつながっている。単調な肉体酷使で頭をからっぽにすれば、複雑にこんがらった思考のクリーンアップにつながり、精神衛生が回復する。

雑巾がけ、お祭りの御神輿、滝に打たれる行者の苦行といった昔からの慣習はすべて、現代人のマラソンやトライアスロン熱に一直線につながっていると思う。

だから、チベットの人が巡礼のために、ラサとカイラスまで1200キロを五体投地をして旅するロードムービーと聞いても、「秘境チベットの人々の心の美しさ。。。」、「痛切な文明批判。。。」といったキャッチコピーには必ずしも共感しなかった。

多分、巡礼はとても楽しいものだ。私もいつか、「五体投地ハイ」を味わえるくらい、思いっきり五体投地をしてみたい。あるいは、ヨーガ、マインドフルネスに続き、「五体投地エキササイズ」が先進国で大ブームになるときが来るかもしれない。

それでもこの映画には、そんな私のともすれば浅薄で機能主義的な「巡礼観」を打ち砕くパワーがあった。

映画の登場人物、1年以上にも及ぶラサ・カイラス巡礼を同じ村の11人の親戚縁者老若男女のグループで行う。一緒にテントを張り、一緒に食事を作り、毎晩、一緒に祈る。同じ景色を見て、同じ人々と出会う。1年間、彼らは文字通り、寝食を共にして巡礼という一つの目的とプロセスを共有する。

それは恐らく、昔の日本の農村共同体の「」という制度にも似たものだっただろう。

今日の私たちにとって、信仰と地域共同体の絆はまるでバラバラだ。山登りや、マラソン、旅行、瞑想。「心身のデトックス」は流行っている。でも、現代日本人はそれを、個人で、夫婦で、もしくはサークルなどの同じ趣味の同好の士とやる。間違っても親戚縁者といっしょにはやらない。

21世紀の日本人にとって、信仰、趣味、旅は、ある意味、「世間のしがらみ」から逃れ、個人としての精神の安らぎを得るためのものだ。間違っても会社の同僚や親戚縁者とはやらない。山ガールは一人で山を登るし、オジサンは一人でお遍路様をやる。

ところが、このチベット人の11人、とても仲がよい。助け合い、励まし合いながら、旅をする。財産、技能、体力の格差がある老若男女が、皆、個を主張せず一つの目的に向けて協力する姿は失われてしまったユートピアのようにも見える。これほどのディープな体験を共有した11人の信頼と結束は、下手な家族以上に高まるだろう。おそらく、最年少参加者の女の子、これからの成長過程で、きっと他の10人の大人たちから、支援を受け続けるに違いない。

親戚縁者のディープな人間関係は、近くに住む人間同士が協力したなければ生きていけなかった時代のものだ。農村社会の個人にとって、家族や近隣の人々との関係は、究極のリスクヘッジ手段だ。でも都市に住む私たちはもう、そういう人間関係がなくても生きていける。その代わり必要となったのがお金や教育だ。でも、お金や教育は、人と人との距離を拡げこそすれ、縮めはしない。

映画の中の一行の巡礼旅行中に、一人の子供が生まれ、一人の老人が死ぬ。11人で出発した巡礼者グループは途中で12人になり、再び11人に戻る。

これは、妊婦やヨボヨボの老人も、出産や死亡のリスクをあらかじめ承知で、今回の巡礼旅行に参加し、その他の参加者もそれを受け入れたたことを意味している。そして、巡礼参加最年少の小学生は、旅のために学校を1年休んでいる。

私が一番、考え込んでしまったのが、ここである。巡礼熱をマラソンやトライアスロン熱と同一線上で理解しようとすることは間違っていないかもしれない。それでもやはり、私たちとこの映画に登場するチベット人の間には絶対、超えられない壁がある。

それはずばり、人生の優先順位の違いだ。

私たちの価値観は、

安全・健康>教育・オカネ>信仰心

これに対し、チベット人は完全に逆転していて、

信仰心>>>>>>安全、健康、教育、オカネ

なのだ。

チベット人は「巡礼中に死んだとしても、巡礼をしないで長生きするよりマシ」、「巡礼してその分教育が遅れても、巡礼しないよりマシ」、「巡礼中の出産に危険があったとしても、巡礼中に生まれる子供の方が幸せ」と考える。

これに対し私たちにとっての信仰は、「健康に差し支えず」「教育に差し支えず」「仕事に差し支えない」範囲のものだ。健康や教育や仕事に役立つ宗教は「良い宗教」だが、それらに役立たない宗教は「悪い宗教」だと私たちは考える。

この違いを突き詰めれば、チベット人は来世の存在を本気で信じて、私たちは信じていないことに行き着く。来世の存在は、信仰心>>>>安全、健康、教育、オカネという価値観の不可欠の成立要件だ。

なぜなら、安全、健康、教育、オカネ。すべて、現世でのみ通用するもので、死んだら意味がないから。来世の存在を前提に人生のプライオリティを見直せば、俄然、信仰の重要性が高まってくるわけだ。

巡礼の途中のカイラスで体調を崩したものの、寝込むことなく、気温の下がった日の朝、テントの寝床で息絶えているところを家族に発見された、『独身の叔父さん』。そんな死に方を心からうらやましいと持った。

来世を信じる人たちは、現世に対して潔ぎがいい。その潔さぶりが、そういう生き方をしていない私たちの心をなぜか動かす。私たちの現世への執着ぶりを反省させる材料となる。

そんなチベット人の生き方の美しさを中国人映画監督のチャン・ヤンは描きたかったのだろう。それは極めて良く成功している。

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